・・・酌に来た女は秋刀魚船の話をした。船員の腕にふさわしい逞しい健康そうな女だった。その一人は私に婬をすすめた。私はその金を払ったまま、港のありかをきいて外へ出てしまったのである。 私は近くの沖にゆっくり明滅している廻転燈台の火を眺めながら、・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・焼かれた秋刀魚が、お皿の上で反り返っている。「これはどうしたことだ?」 利平は、半ば泣き出したい気持になった。「利助、利助」女房は、塀越しに呼びかけようとした。「馬、馬鹿ッ、黙れ」 利平は、女房の口に手を当てて、黙らせた。・・・ 徳永直 「眼」
・・・するとその農家の爺さんと婆さんが気の毒がって、ありあわせの秋刀魚を炙って二人の大名に麦飯を勧めたと云います。二人はその秋刀魚を肴に非常に旨く飯を済まして、そこを立出たが、翌日になっても昨日の秋刀魚の香がぷんぷん鼻を衝くといった始末で、どうし・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・それから、いまでもやっぱり目黒の秋刀魚かい、と云いはしなかったろうか。これは学習院の学生達のみち足りた境遇では、知識欲も、珍しさの味――落語にある「目黒の秋刀魚」に類するものか、と、三十数年前の講演で彼が語った、そのことである。 この質・・・ 宮本百合子 「日本の青春」
出典:青空文庫