一「そんな事があるものですか。」「いや、まったくだから変なんです。馬鹿々々しい、何、詰らないと思う後から声がします。」「声がします。」「確かに聞えるんです。」 と云った。私たち二人は、そ・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・手前が何しますにつけて、これもまた、学校に縁遠い方だったものでえすから、暑さ寒さの御見舞だけと申すのが、書けないものには、飛んだどうも、実印を捺しますより、事も大層になります処から、何とも申訳がございやせん。 何しろ、まあ、御緩りなすっ・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・「いえ、かねてお諭しでもござりますし、不断十分に注意はしまするが、差当り、火の用心と申すではござりませぬ。……やがて、」 と例の渋い顔で、横手の柱に掛ったボンボン時計を睨むようにじろり。ト十一時……ちょうど半。――小使の心持では、時・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・シタノサエ二年ブリト申スヨウナ訳デス、昔ハ御機嫌伺イトイウ事モアリマシタガ、今デハ御気焔伺イデスカラ、蛙鳴ク小田原ッ子ノ如キハ、メッタニ都ヘハ出ラレマセヌ、コノゴロ御引越ニナリマシタソウデ、区名カラ申シマスト、アナタモヤハリ牛門ノ一傑デアラ・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・巌本撫象が二葉亭は哲学者であるといったのを奇異な感じを以て聞いていたが、ドストエフスキーの如き偉大な作家を産んだ露国の文学に造詣する二葉亭は如何なる人であろうと揣摩せずにはいられなかった。 これより先き、私はステップニャツクの『アンダー・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・それで日に幾人となくこの町を通る旅人が、みなこの町にきかかると、急に体に疲れを覚えて眠くなりますので、町はずれの木かげの下や、もしくは町の中にある石の上に腰を下ろして、しばらく休もうといたしまするうちに、まるで深い深い穴の中にでも引き込まれ・・・ 小川未明 「眠い町」
・・・ あっという間に、闇の中へ走りだしてしまった。 私はことの意外におどろいた。「あ、ちょっと……。宿はどこですか。どの道を行くんですか。ここ真っ直ぐ行けばいいんですか。宿はすぐ分りますか」「へえ、へえ、すぐわかりますでやんす。・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ンでまア巧いこと乳にありついて、餓え死を免れたわけやが、そこのおばはんいうのが、こらまた随分りん気深い女子で、亭主が西瓜時分になると、大阪イ西瓜売りに行ったまンま何日も戻ってけえへんいうて、大騒動や。しまいには掴み合いの喧嘩になって、出て行・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 芝居のつもりだがそれでもやはり興奮するのか、声に泪がまじる位であるから、相手は驚いて、「無茶いいなはんナ、何も私はたたかしまへんぜ」とむしろ開き直り、二三度押問答のあげく、結局お辰はいい負けて、素手では帰せぬ羽目になり、五十銭か一円だ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・またある一人は「君はどこに住んでも直ぐその部屋を陰鬱にしてしまうんだな」と言った。 いつも紅茶の滓が溜っているピクニック用の湯沸器。帙と離ればなれに転っている本の類。紙切れ。そしてそんなものを押しわけて敷かれている蒲団。喬はそんなな・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
出典:青空文庫