・・・お前なんぞは殺そうと思えば、雛っ仔の頸を絞めるより――」 こう言いかけた婆さんは、急に顔をしかめました。ふと相手に気がついて見ると、恵蓮はいつか窓際に行って、丁度明いていた硝子窓から、寂しい往来を眺めているのです。「何を見ているんだ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・「やはり十字架の御威光の前には、穢らわしい日本の霊の力も、勝利を占める事はむずかしいと見える。しかし昨夜見た幻は?――いや、あれは幻に過ぎない。悪魔はアントニオ上人にも、ああ云う幻を見せたではないか? その証拠には今日になると、一度に何・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・と、奴は顱巻の輪を大きく腕いっぱいに占める真似して、「いきなり艫へ飛んで出ると、船が波の上へ橋にかかって、雨で辷るというもんだ。 どッこいな、と腰を極めたが、ずッしりと手答えして、槻の大木根こそぎにしたほどな大い艪の奴、のッしりと掻・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ まだ船底を踏占めるような、重い足取りで、田畝添いの脛を左右へ、草摺れに、だぶだぶと大魚を揺って、「しいッ、」「やあ、」 しっ、しっ、しっ。 この血だらけの魚の現世の状に似ず、梅雨の日暮の森に掛って、青瑪瑙を畳んで高い、・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・もう腰衣ばかり袈裟もはずして、早やお扉を閉める処。この、しょびたれた参詣人が、びしょびしょと賽銭箱の前へ立った時は、ばたり、ばたりと、団扇にしては物寂しい、大な蛾の音を立てて、沖の暗夜の不知火が、ひらひらと縦に燃える残んの灯を、広い掌で煽ぎ・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ で、引返して行く女中のあとへついて、出しなに、真中の襖を閉める、と降積る雪の夜は、一重の隔も音が沈んで、酒の座は摺退いたように、ずッと遠くなる……風の寒い、冷い縁側を、するする通って、来馴れた家で戸惑いもせず、暗がりの座敷を一間、壁際・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・刻んだ糸を巻いて、丹で染めるんだっていうんですわ。」「そこで、「友禅の碑」と、対するのか。しかし、いや、とにかく、悪い事ではない。場所は、位置は。」「さあ、行って見ましょう。半分うえ出来ているようです。門を入って、直きの場所です。」・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・正直な満蔵は姉にどなられて、いつものように帯締めるまもなく半裸で雨戸を繰るのであろう。「おっかさんお早うございます。思いのほかな天気になりました」 満蔵の声だ。「満蔵、今日は朝のうちに籾を干すんだからな、すぐ庭を掃いてくれろ」・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・戸を締めると出るからな」 細君は帰って終う。岡村が蚊帳を釣ってくれる。予は自ら蒲団を延べた。二人は蚊帳の外で、暫く東京なる旧友の噂をする、それも一通りの消息を語るに過ぎなかった。「君疲れたろう、寝んでくれ給え」岡村はそういって、宿屋の帳・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・そして、お姫さまの赤い着物に、日が映って、海の上を染めるよう見えたのです。 しかし、不思議なことには、船はだんだんと水の中に深く沈んでいきました。侍女たちが手に手を取って投げる金銀の輝きと、お姫さまの赤い着物とが、さながら雲の舞うような・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
出典:青空文庫