・・・私は遠藤という書生だが――どうだね? その御嬢さんはどこにいらっしゃる」 遠藤はこう言いながら、上衣の隠しに手を入れると、一挺のピストルを引き出しました。「この近所にいらっしゃりはしないか? 香港の警察署の調べた所じゃ、御嬢さんを攫・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・僕は時々ビスケットなどを持ち、彼のいる書生部屋へ見舞いに行った。彼はいつも床の上に細い膝を抱いたまま、存外快濶に話したりした。しかし僕は部屋の隅に置いた便器を眺めずにはいられなかった。それは大抵硝子の中にぎらぎらする血尿を透かしたものだった・・・ 芥川竜之介 「彼」
・・・ 或物質主義者の信条「わたしは神を信じていない。しかし神経を信じている。」 阿呆 阿呆はいつも彼以外の人人を悉く阿呆と考えている。 処世的才能 何と言っても「憎悪する」ことは処世的・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・ といって、内職に配達をやっている書生とも思わしくない、純粋の労働者肌の男が……配達夫が、二、三人の子供を突き転ばすようにして人ごみの中に割りこんで来た。 彼はこれから気のつまるようないまいましい騒ぎがもちあがるんだと知った。あの男・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・男がみだりに笑ったり、口を利くものではないということが、父の教えた処世道徳の一つだった。もっとも父は私の弟以下にはあまり烈しい、スパルタ風の教育はしなかった。 父も若い時はその社交界の習慣に従ってずいぶん大酒家であった。しかしいつごろか・・・ 有島武郎 「私の父と母」
・・・……不器用でも、これは書生の方がうまかった。令夫人は、駒下駄で圧えても転げるから、褄をすんなりと、白い足袋はだし、それでも、がさがさと針を揺り、歯を剥いて刎ねるから、憎らしい……と足袋もとって、雪を錬りものにしたような素足で、裳をしなやかに・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・彼は、元来、この町に、立派な玄関を磨いた医師のうちの、書生兼小使、と云うが、それほどの用には立つまい、ただ大食いの食客。 世間体にも、容体にも、痩せても袴とある処を、毎々薄汚れた縞の前垂を〆めていたのは食溢しが激しいからで――この頃は人・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・夫婦の者が深くあいたよって互いに懐しく思う精神のほとんど無意識の間にも、いつも生き生きとして動いているということは、処世上つねに不安に襲われつつある階級の人に多く見るべきことではあるまいか。 そりゃ境遇が違えば、したがって心持ちも違うの・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・手っとり早く云えば、彼は全く書生気質が抜け尽して居るのだ。普通な人間の親父になって居たのだ。 やれやれそうであった、旧友として訪問したのも間違っていた。厄介に思われて腹を立てたも考えがなかった。予はこう思うて胸のとどこおりが一切解けて終・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ 何しろ社交上の礼儀も何も弁えない駈出しの書生ッぽで、ドンナ名士でも突然訪問して面会出来るものと思い、また訪問者には面会するのが当然で、謝絶するナゾとは以ての外の無礼と考えていたから、何の用かと訊かれてムッとした。「何の用事もありま・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
出典:青空文庫