・・・ 死は古えから悼ましき者、悲しき者とせられて居る、左れど是は唯だ其親愛し、尊敬し、若くは信頼したる人を失える生存者に取って、悼ましく悲しきのみである、三魂、六魂一空に帰し、感覚も記憶も直ちに消滅し去るべき死者其人に取っては、何の悼みも悲・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・しかし日頃信頼する医者の許に一夜を送って、桑畠に続いた病室の庭の見える雨戸の間から、朝靄の中に鶏の声を聞きつけた時は、彼女もホッとした。小山の家のある町に比べたら、いくらかでも彼女自身の生まれた村の方に近い、静かな田舎に身を置き得たという心・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ しかし、いまではそのお母さんよりも、娘さんのほうが、よけいに私を信頼しているように、どうも、そうらしく私には思われて来た。「キクちゃん。こないだ、あなたの未来の旦那さんに逢ったよ。」「そう? どうでした? すこうし、キザね。そ・・・ 太宰治 「朝」
・・・私は二十五年間、井伏さんの作品を、信頼しつづけた。たしか私が高等学校にはいったとしの事であったと思うが、私はもはやたまりかねて、井伏さんに手紙をさし上げた。そうしてこれは実に苦笑ものであるが、私は井伏さんの作品から、その生活のあまりお楽でな・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・私はあなたの、今の言葉だけを信頼します。(と検事は、はじめて白い歯を出して微笑そうで無ければ、私は今すぐあなたを、未決檻に送るつもりでいたのですよ。殺人幇助という立派な罪名があります。 以上は、かの芸術家と、いやらしく老獪な検事との一問・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・この艱難だけは、信頼できる。けれども、もともと絶望の行為である。おれは滅亡の民であるという思念一つが動かなかった。早く死にたい願望一つである。おのれひとりの死場所をうろうろ捜し求めて、狂奔していただけの話である。人のためになるどころか、自分・・・ 太宰治 「花燭」
・・・君の眼は、嘘つきの眼ですね、と突然言ってその新来の客を驚愕させる痩せた男は、これも男爵でなかった。それでは男爵はどこにいるか。その八畳の客間の隅に、消えるように小さく坐って、皆の談論をかしこまって聞いている男が、男爵である。頗るぱっとしない・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ 案内記が詳密で正確であればあるほど、これに対する信頼の念が厚ければ厚いほど、われわれは安心して岐路に迷う事なしに最少限の時間と労力を費やして安全に目的地に到着することができる。これに増すありがたい事はない。しかしそれと同時についその案・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・その時に自分は全く神来的に「孕のジャンはこれだ」と感じた。この地鳴りの音は考え方によってはやはりジャーンとも形容されうる種類の雑音であるし、またその地盤の性質、地表の形状や被覆物の種類によってはいっそうジャーンと聞こえやすくなるであろうと思・・・ 寺田寅彦 「怪異考」
・・・もっとも中には直感的に認めた結果が誤謬である場合もしばしばあるが、とにかくこれらの場合における科学者の心の作用は芸術家が神来の感興を得た時のと共通な点が少なくないであろう。ある科学者はかくのごとき場合にあまりはなはだしく興奮してしばらく心の・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
出典:青空文庫