・・・地平も、そのころ、おのれを仕合せとは思わず、何かと心労多かったことであったようだが、それより、三年たって、今日、精も根も使いはたして、洋服の中に腐りかけた泥がいっぱいだぶだぶたまって、ああ、夕立よ、ざっと降れ、銀座のまんなかであろうと、二重・・・ 太宰治 「喝采」
・・・婚礼の祝宴の夜、アグリパイナは、その新郎の荒飲の果の思いつきに依り、新郎手飼の数匹の老猿をけしかけられ、饗筵につらなれる好色の酔客たちを狂喜させた。新郎の名は、ブラゼンバート。もともと、戦慄に依ってのみ生命の在りどころを知るたちの男であった・・・ 太宰治 「古典風」
・・・ああ、このごろ私は毎日、新郎の心で生きている。┌昭和十六年十二月八日之を記せり。 ┐└この朝、英米と戦端ひらくの報を聞けり。┘ 太宰治 「新郎」
・・・結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・毎日、毎日、尾沼栄蔵のサロンに、稽古に出かけて、ごほんごほん変なせきが出て、ゆたかな頬が、細くなるほど、心労つづけた。 初日が、せまった。三木は、こっそり尾沼栄蔵のもとへ、さちよの様子を聞きに行った。帰って来てからさちよに、君がうまいん・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・主、答へて言ふ「マルタよ、マルタよ、汝さまざまの事により思ひ煩ひて心労す。されど無くてならぬものは多からず、唯一つのみ、マリヤは善きかたを選びたり。此は彼より奪ふべからざるものなり。」 私は、ただ読ませただけで、なんの説明も附加しなかっ・・・ 太宰治 「律子と貞子」
・・・その傍に立った丸髷の新婦が甲斐甲斐しく襷掛けをして新郎のために鬚を剃ってやっている光景がちらと眼前に展開した。透見の女性達の眼には、その光景が、何かひどく悪い事でもしている現場を見届けでもしたように、とにかく笑うべく賤しむべきこととして取扱・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・人々の視線一度に此方へ向かえば新郎のパナマ帽もうつむきける。この二人間もなく大阪行のにて去る。引きちがえて入り来る西洋人のたけ低く顔のたけも著しく短きが赤き顔にこればかり立派なる鬚ひねりながら煙草を人力に買わせて向側のプラットフォームに腰を・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・学校にありがちな大小の事件のために彼の健康には荷の勝った辛労もあったようである。そういう時にどんな態度でどんな処置をとったかは全く私にはわからないが、ただ日記の断片のようなものなどから判断してみると、いつでもおしまいには自分の誠意や熱心や愛・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・一 下部あまた召使とも万の事自から辛労を忍て勤ること女の作法也。舅姑の為に衣を縫ひ食を調へ、夫に仕て衣を畳み席を掃き、子を育て汚を洗ひ、常に家の内に居て猥に外へ出べからず。 下女下男を多く召使うとも、婦人たる者は万事・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
出典:青空文庫