・・・鸚鵡の一件で木村は初めてにがにがしい事情を知って、私に、それとなく、言葉少なに転宿をすすめ、私も同意して、二人で他の下宿に移りました。 木村は細長い顔の、目じりの長く切れた、口の小さな男で、背たけは人並みに高く、やせてひょろりとした上に・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ 私の知ってるある文筆夫人に、女学校へも行かなかった人だが、事情あって娘のとき郷里を脱け出て上京し、職業婦人になって、ある新聞記者と結婚し、子どもを育て、夫を助けて、かなり高い社会的地位まで上らせ、自分も独学して、有名な文筆夫人になって・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ 俺れらを特種にするよりゃ、さきに、内地の事情を知らすがいゝ。」 彼等は、記者が一枚の写真をとって部屋を出て行くと、口々にほざいた。「俺ら、キキンで親爺やおふくろがくたばってやしねえか、それが気にかゝってならねえや!」三 前・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・これらの事情の湊合のために、源三は自分の唯一の良案と信じている「甲府へ出て奉公住みする」という事をあえてしにくいので、自分が一刻も早く面白くない家を出てしまって世間へ飛び出したいという意からは、お浪親子の親切を嬉しいとは思いながら難有迷惑に・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ すなわち、死ということにともなう諸種の事情である。その二、三をあげれば、天寿をまっとうして死ぬのでなく、すなわち、自然に老衰して死ぬのでなくして、病疾その他の原因から夭折し、当然うけるであろう、味わうであろう生を、うけえず、味わいえな・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・それに国との手紙の往復にも多くの日数がかかり世界大戦争の始まってからはことに事情も通じがたいもどかしさに加えて、三年の月日の間には国のほうで起こった不慮な出来事とか種々の故障とかがいっそう旅を困難にした。私も、外国生活の不便はかねて覚悟して・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・先方の事情にすぐ安値な同情を寄せて、気の毒だ、かわいそうだと思う。それが動機で普通道徳の道を歩んでいる場合も多い。そしてこれが本当の道徳だとも思った。しかしだんだん種々の世故に遭遇するとともに、翻って考えると、その同情も、あらゆる意味で自分・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・としたためたかきつけと、東京方面の事情を上奏する書面を入れた報告筒を投下し、胸をとどろかせてまっていると、下から大きな旗がふりはじめられたので、かしこみよろこんで、帰還し 摂政宮殿下に言上しました。 皇族の方々のおんうち、東京でおやしき・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・私がそのひとのお母さんを知っていて、そうしてそのお母さんは、或る事情で、その娘さんとわかれわかれになって、いまは東北のほうで暮しているのである。そうして時たま私に手紙を寄こして、その娘の縁談に就いて、私の意見を求めたりなどして、私もその候補・・・ 太宰治 「朝」
・・・しかし今までのところでまだ学芸方面において世界第一人者として、少なくとも公認されたものの数のはなはだしく希少なことについては、これにはまたいろいろの「事情」があるようである。 今ここでこの事情なるものの分析を試みるべき筋ではないが、とも・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫