・・・しかし家庭の経済は楽でなかったから、ともかくも自分で働いて食わなければならないので、シャフハウゼンやベルンで私教師を勤めながら静かに深く物理学を勉強した。かなりに貧しい暮しをしていたらしい。その時分の研学の仲間に南ロシアから来ている女学生が・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・生活のまったく絶息してしまったようなこの古い鄙びた小さな都会では、干からびたような感じのする料理を食べたり、あまりにも自分の心胸と隔絶した、朗らかに柔らかい懈い薄っぺらな自然にひどく失望してしまったし、すべてが見せもの式になってしまっている・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・そのころのことは主要な印象のほかは、すべて煙のごとく忘れてしまったけれど、その小さい航海のことは唯今のことのように思われていた。その時分私は放縦な浪費ずきなやくざもののように、義姉に思われていた。 私はどこへ行っても寂しかった。そして病・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ はたで眺めるぶんには、仕事も気楽に見えるが、実際自分でやるとなると、たかがこんにゃく売りくらいでも、なかなか骨が折れるものだ。 ――こんにゃはァ、こんにゃはァ、 ただこのふれごえ一つだけでも、往来の真ン中で、みんなが見ているところ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・「もう嫁達は、川端田圃へゆきついた時分だろう……」 頃合をはかって、善ニョムさんは寝床の上へ、ソロソロ起きあがると、股引を穿き、野良着のシャツを着て、それから手拭でしっかり頬冠りした。「これでよし、よし……」 野良着をつける・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・ブラヂルコーヒーが普及せられて、一般の人の口に味われるようになったのも、丁度その時分からで、南鍋町と浅草公園とにパウリスタという珈琲店が開かれた。それは明治天皇崩御の年の秋であった。 ○ 談話がゆくりなく目に見・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・母親は下女まかせには出来ないとて、寒い夜を台所へと立って行かれる。自分は幼心に父の無情を憎く思った。 年の暮が近いて、崖下の貧民窟で、提灯の骨けずりをして居た御維新前のお籠同心が、首をくくった。遠からぬ安藤坂上の質屋へ五人連の強盗が這入・・・ 永井荷風 「狐」
・・・はっと押えた時文造の手の平は赤くなった。犬の血に尋いで更に文造の血が番小屋に灑がれた。雨の大きな粒がまばらに蜀黍の葉を打って来た。霧の如く白雨の脚が軟弱な稲を蹴返し蹴返し迫って来た。田甫を渡って文造はひた走りに走った。夕立がどっと来た。黄褐・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・大きな荷物は彼等が必ず携帯する自分の敷蒲団と枕とである。此も紺の袋へ入れた三味線が胴は荷物へ載せられて棹が右の肩から斜に突っ張って居る。彼等は皆大きな爪折笠を戴く。瞽女かぶりといって大事な髪は白い手拭で包んでそうして其髷へ載せた爪折笠は高く・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・カーライルは書物の上でこそ自分独りわかったような事をいうが、家をきめるには細君の助けに依らなくては駄目と覚悟をしたものと見えて、夫人の上京するまで手を束ねて待っていた。四五日すると夫人が来る。そこで今度は二人してまた東西南北を馳け廻った揚句・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
出典:青空文庫