・・・滑かな上方弁の会話が、纏綿として進行する間に、かちゃかちゃ云うフォオクの音が、しきりなく耳にはいって来た。 が、幸い本間さんには、少しもそれが気にならない。何故かと云うと、本間さんの頭には、今見て来た驚くべき光景が、一ぱいになって拡がっ・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・――検する官人の前で、「――三日以来、大沼が、日に三度ずつ、水の色が真赤になる情報があったであります。緋の鳥が一羽ずつ来るのだと鳥博士が申されました。奇鳥で、非常な価値である。十分に準備を整えて出向ったであります。果して、対岸に真紅な鳥・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・尤も長崎から上方に来たのはかなり古い時代で、西鶴の作にも軽焼の名が見えるから天和貞享頃には最う上方人に賞翫されていたものと見える。江戸に渡ったのはいつ頃か知らぬが、享保板の『続江戸砂子』に軽焼屋として浅草誓願寺前茗荷屋九兵衛の名が見える。み・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・随分書いたが、情報局ではねられて許可にならなかったから、金はくれないんだ。余り催促すると、汚ないと思われるから黙っていたがね」「しかし、汚ないという評判だぜ。目下の者におごらせたりしたのじゃないかな」「えっ」 解せぬという顔だっ・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・出血を止めるため傷の上方をかたく紐で縛りつけた。それで手の方へは殆んど血が通わなくなっているのだった。腕は鉛の分銅でも吊るしているように重かった。「あゝ、たまらん。早よ軍医殿にそう云って呉れろ!」 着かえたばかりの病衣に血がにじみだ・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・私は三度も点呼を受けさせられ、そのたんびに竹槍突撃の猛訓練などがあり、暁天動員だの何だの、そのひまひまに小説を書いて発表すると、それが情報局に、にらまれているとかいうデマが飛んで、昭和十八年に「右大臣実朝」という三百枚の小説を発表したら、「・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。 ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・社へ情報がはいって、すぐ病院へ飛んでいったら、この先生、ただ、わあわあ泣いているんでしょう? わけがわからない。そのうちに警視庁から、記事の差止だ。ご存じですか? 須々木乙彦って、あれは、ただの鼠じゃないんですね。黒色テロ。銀行を襲撃しちゃ・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・ など叫喚して手がつけられず、私なども、雑誌の小説が全文削除になったり、長篇の出版が不許可になったり、情報局の注意人物なのだそうで、本屋からの注文がぱったり無くなり、そのうちに二度も罹災して、いやもう、ひどいめにばかり遭いましたが、しかし、・・・ 太宰治 「返事」
・・・よく聞いてみると、当時高名であった強盗犯人山辺音槌とかいう男が江の島へ来ているという情報があったので警官がやって来て宿泊人を一々見て歩き留守中の客の荷物を調べたりしたというのである。強盗犯人の嫌疑候補者の仲間入りをしたのは前後にこの一度限り・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
出典:青空文庫