・・・の二十入りの空き箱に水を打ったらしい青草がつまり、それへ首筋の赤い蛍が何匹もすがっていたと言うことです。もっともそのまた「朝日」の空き箱には空気を通わせるつもりだったと見え、べた一面に錐の穴をあけてあったと云うのですから、やはり半之丞らしい・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・ * * * 煙客翁が私にこの話を聴かせたのは、始めて秋山図を見た時から、すでに五十年近い星霜を経過した後だったのです。その時は元宰先生も、とうに物故していましたし、張氏の家でもいつの間にか、三度ま・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・クララの前にはアグネスを従えて白い髯を長く胸に垂れた盛装の僧正が立っている。クララが顔を上げると彼れは慈悲深げにほほえんだ。「嫁ぎ行く処女よ。お前の喜びの涙に祝福あれ。この月桂樹は僧正によって祭壇から特にお前に齎らされたものだ。僧正の好・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ それが紫に緋を襲ねた、かくのごとく盛粧された片袖の端、……すなわち人間界における天人の羽衣の羽の一枚であったのです。 諸君、私は謹んで、これなる令嬢の淑徳と貞操を保証いたします。……令嬢は未だかつて一度も私ごときものに、ただ姿さへ・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・――お前もな、青草ものの商売や。お客から祝儀とか貰うようには行かんぞな。」「でも、」 と蕈が映す影はないのに、女の瞼はほんのりする。 安値いものだ。……私は、その言い値に買おうと思って、声を掛けようとしたが、隙がない。女が手を離・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・謙譲の褄はずれは、倨傲の襟より品を備えて、尋常な姿容は調って、焼地に焦りつく影も、水で描いたように涼しくも清爽であった。 わずかに畳の縁ばかりの、日影を選んで辿るのも、人は目をみはって、鯨に乗って人魚が通ると見たであろう。……素足の白い・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 一処、大池があって、朱塗の船の、漣に、浮いた汀に、盛装した妙齢の派手な女が、番の鴛鴦の宿るように目に留った。 真白な顔が、揃ってこっちを向いたと思うと。「あら、お嬢様。」「お師匠さーん。」 一人がもう、空気草履の、媚か・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ずれでな、往来から岡の方へ余程経上って、小高い所にあるから一寸見ても涼しそうな家さ、おれがいくとお町は二つの小牛を庭の柿の木の蔭へ繋いで、十になる惣領を相手に、腰巻一つになって小牛を洗ってる、刈立ての青草を籠に一ぱい小牛に当てがって、母子が・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・孔雀のような夫人のこの盛粧はドコへ行っても目に着くので沼南の顔も自然に知られ、沼南夫人と解って益々夫人の艶名が騒がれた。 九段の坂下の近角常観の説教所は本とは藤本というこの辺での落語席であった。或る晩、誰だかの落語を聴きに行くと、背後で・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・それから数株の梅の老木のほかには何一つなく清掃されている庭へ出て、老師の室の前の茅葺きの簷下を、合掌しながら、もはや不安でいっぱいになった身体をしいて歩調を揃えて往ったり来たりして、やはり老師さん! 老師さん! を繰返し続けたが、だんだんそ・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
出典:青空文庫