・・・この溝の水はたぶん、小金井の水道から引いたものらしく、よく澄んでいて、青草の間を、さも心地よさそうに流れて、おりおりこぼこぼと鳴っては小鳥が来て翼をひたし、喉を湿おすのを待っているらしい。しかし婆さんは何とも思わないでこの水で朝夕、鍋釜を洗・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・今後、幾百年かの星霜をへて、文明はますます進歩し、物質的には公衆衛生の知識がいよいよ発達し、一切の公共の設備が安固なのはもとより、各個人の衣食住もきわめて高等・完全の域に達すると同時に、精神的にもつねに平和・安楽であって、種々の憂悲・苦労の・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・極、油尽きて火の滅する如く、自然に死に帰すということは、其実甚だ困難のことである、何となれば之が為めには、総ての疾病を防ぎ総ての禍災を避くべき完全の注意と方法と設備とを要するからである、今後幾百年かの星霜を経て、文明は益々進歩し、物質的には・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・一本の青草もない。 私は岩山の岸に沿うてよろよろと歩いた。あやしい呼び声がときどき聞える。さほど遠くからでもない。狼であろうか。熊であろうか。しかし、ながい旅路の疲れから、私はかえって大胆になっていた。私はこういう咆哮をさえ気にかけず島・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・私は、恋をしているのかも知れない。青草原に仰向けに寝ころがった。「お父さん」と呼んでみる。お父さん、お父さん。夕焼の空は綺麗です。そうして、夕靄は、ピンク色。夕日の光が靄の中に溶けて、にじんで、そのために靄がこんなに、やわらかいピンク色・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・ちょっと近所の友人の家を訪れる時にも、かならず第一の正装をするのだ。ふところには、洗ったばかりのハンケチが、きちんと四つに畳まれてはいっている。 私は、このごろ、どうしてだか、紋服を着て歩きたくて仕様がない。 けさ、花を買って帰る途・・・ 太宰治 「新郎」
・・・四月のはじめに、こんな、春の青草を見る事が出来るなんて、思いも寄らなかったわ。青草? しかし、雪の下から現われたのは青草だけじゃないんだ。ごらん、もう一面の落葉だ。去年の秋に散って落ちた枯葉が、そのまんま、また雪の下から現われて来た。意・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・いまにあたたかくなり、雪が溶けて、田圃の青草が見えて来るようになったら、あたしは毎日鍬をかついで田畑に出て、黙って働くつもりです。あたしは、ただの百姓女になります。あたしだけでなく、睦子をも、百姓女にしてしまうつもりです。あたしは今の日本の・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・ふと前方を見ると、緑いろの寝巻を着た令嬢が、白い長い両脚を膝よりも、もっと上まであらわして、素足で青草を踏んで歩いている。清潔な、ああ、綺麗。十メエトルと離れていない。「やあ!」佐野君は、無邪気である。思わず歓声を挙げて、しかもその透き・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・たのしみは、夜夜、夢を見ることであった。青草の景色もあれば、胸のときめく娘もいた。 或る朝、三郎はひとりで朝食をとっていながらふと首を振って考え、それからぱちっと箸をお膳のうえに置いた。立ちあがって部屋をぐるぐる三度ほどめぐり歩き、それ・・・ 太宰治 「ロマネスク」
出典:青空文庫