・・・「それからあの奥に吉野谷という仙境があるだろう。子供の時分遠足に行ったことがあるんで、一度行ってみようと思いながら、いつもどこへも行かずに帰ってしまうんだ。まだ山代さえ知らないくらいだ」 それから遊び場所の選択や、交通の便なぞについ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ これは堤防の上を歩みながら見る右側の眺望であるが、左側を見れば遠く小工場の建物と烟突のちらばらに立っている間々を、省線の列車が走り、松林と人家とは後方の空を限る高地と共に、船橋の方へとつづいている。高地の下の人家の或処は立て込んだり、・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・行わるべからざるは明白なる時勢とも心付かずして、我が国人は教育の熱心自から禁ずること能わず、次第次第に高きを勉めて止まるを知らず、俗世界はいぜんとして卑く、教育法はますます高く、学校はあたかも塵俗外の仙境にして、この境内に閉居就学すること幾・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾学生諸氏に告ぐ」
・・・と、さながら戦況の不利を目の前に見ているように「何という無念!」という感情で語りすすめている。読者は、専門家の生々した話しぶりにひきいれられ、スリルを刺戟され、われ知らず筆者の感情の流れにひきいれられている。そのようなミッドウェイの敗北をひ・・・ 宮本百合子 「ことの真実」
・・・私に漢詩を味う力はないが、卒読したところ、それらの詩は、どれも所謂仙境に遊ぶ的境地を詠ったものが多い。白雲飛ぶところ、鶴舞い遊ぶところに、漱石は、「明暗」から日に一度ずつ逃げて行っている。もし漱石が「明暗」完結後まで生きていることが出来たと・・・ 宮本百合子 「文学における今日の日本的なるもの」
・・・信濃川にいでて見るに船橋断えたり。小舟にてわたる。豊野より汽車に乗りて、軽井沢にゆく。途次線路の壊れたるところ多し、又仮に繕いたるのみなれば、そこに来るごとに車のあゆみを緩くす。近き流を見るに、濁浪岸を打ちて、堤を破りたるところ少からず。さ・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫