・・・われ、事に於いて後悔せず、との菊池氏の金看板の楯の弱さにも、ふと気づいて、地上の王者へ、無言で一杯のミルクささげてやって呉れる決意ついたら、それが、また、君のからだの一歩前進なること疑う勿れ。 営利目的の病院ゆえ、あらゆる手段にて患・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・ 病気はほんとうに治ったのでないから、息が非常に切れる。全身には悪熱悪寒が絶えず往来する。頭脳が火のように熱して、顳がはげしい脈を打つ。なぜ、病院を出た? 軍医があとがたいせつだと言ってあれほど留めたのに、なぜ病院を出た? こう思ったが・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ さればとて前進すれば必ず戦争の巷の人とならなければならぬ。戦争の巷に入れば死を覚悟しなければならぬ。かれは今始めて、病院を退院したことの愚をひしと胸に思い当たった。病院から後送されるようにすればよかった……と思った。 もうだめだ、万事・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・親鳥だと、単にちょっと逆立ちをしてしっぽを天に朝しさえすればくちばしが自然に池底に届くのであるが、ひな鳥はこうして全身を没してもぐらないと目的を達しないから、その自然の要求からこうした芸当をするのであろうが、それにしても、水中にもぐっている・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・そのためにややもすると前進する勇気を阻喪しやすい。頭の悪い人は前途に霧がかかっているためにかえって楽観的である。そうして難関に出会っても存外どうにかしてそれを切り抜けて行く。どうにも抜けられない難関というのはきわめてまれだからである。 ・・・ 寺田寅彦 「科学者とあたま」
・・・しかしてこの哀れなる垂死の人の生涯を夢みた時、あたかもこの人の今の境遇が余の未来を現わしていて、余自身がこの翁の前身であるような感じがした。 彼は必ず希望を抱いて生れ、希望の力によって生きて来たであろう。否今もなおこの凩に吹き散る雲の影・・・ 寺田寅彦 「凩」
・・・これについては現に理化学研究所平田理学士によって若干の実験的研究が進行しているが、これもやはり広義の拡散的漸進的現象に伴なう、不連続的あるいは局発現象であって、従来有りふれの単純な拡散の理論だけでは、間に合わない筋のものであろうと思われる。・・・ 寺田寅彦 「自然界の縞模様」
・・・ 五 百貨店の先祖 百貨店の前身は勧工場である。新橋や上野や芝の勧工場より以前には竜の口の勧工場というのがあって一度ぐらい両親につれられて行ったような茫とした記憶があるが、夢であったかもしれない。それはとにかく、その・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・すべてがそのはじめは不精密なる経験の試験的整理を幾重となく折り返し繰り返し重ねて、漸進的に進んで来たものである。その昔、独断と畏怖とが対峙していた間は今日の「科学」は存在しなかった。「自然」を実験室内に捕えきたってあらゆる稚拙な「試み」を「・・・ 寺田寅彦 「比較言語学における統計的研究法の可能性について」
・・・もしも履歴の影響が時とともに速やかに漸進線的に収斂しなかったらどうであろうか。すべての物体は雲煙のごとくまた妖怪変化と類を同じうするだろう。 重量約一匁とか長さ約一寸といえば通例衡り方度り方の粗雑な事を意味する。丁度一匁とかキッチリ一寸・・・ 寺田寅彦 「方則について」
出典:青空文庫