・・・古い車台を天井にして、大きい導管二つを左右の壁にした穴である。 雪を振り落してから、一本腕はぼろぼろになった上着と、だぶだぶして体に合わない胴着との控鈕をはずした。その下には襦袢の代りに、よごれたトリコオのジャケツを着込んでいる。控鈕を・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・皆くたばるのだ。皆そう云っていらあ。ひどい奴等だよ、金持と云う奴等は。」「なぜぬすっとをしない。」爺いさんが荒々しい声で云った。 この詞は一本腕の癪に障った。「なに。ぬすっとだ。口で言うのは造做はないや。だが何を盗むのだ。誰の物を盗・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・元老院中二、三の学者あるも、その議事これがために色を添うるに非ず。海陸軍中一、二の文人あるも、戦場の勝敗に関すべきに非ず。あるいは学者文人に諮問の要もあらば、その時にしたがいてこれに問うこと、はなはだ易し。国の大計より算すれば、年金の法、決・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・然るに、時運の然らしむるところ、人民、字を知るとともに大いに政治の思想を喚起して、世事ようやく繁多なるに際し、政治家の一挙一動のために、併せて天下の学問を左右進退せんとするの勢なきに非ず。実に国のために歎ずるに堪えずとて、福沢先生一篇の論文・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・いきなりモデルを見附けてこいつは面白いというようなのでは勿論無い。そうじゃなくて、自分の頭に、当時の日本の青年男女の傾向をぼんやりと抽象的に有っていて、それを具体化して行くには、どういう風の形を取ったらよかろうか。といろいろ工夫をする場合に・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・それに受身になって運命に左右せられていないで、何か閲歴がしてみたいと云う女の気質の反抗が見えている。要するにどの女でも若い盛りが過ぎて一度平静になった後に、もうほどなく老が襲って来そうだと思って、今のうちにもう一度若い感じを味ってみたいと企・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ 自動車がセエヌ河に沿うて走る間オオビュルナンはこんな事を考えた。「三十三年に六年を足せば三十九年になる。マドレエヌは年増としてはまだ若い方だ。察するに今度のような突飛な事をしたのは、今に四十になると思ったからではあるまいか。夫が不実を・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
脚本作者ピエエル・オオビュルナンの給仕クレマンが、主人の書斎の戸を大切そうに開いた。ちょうど堂守が寺院の扉を開くような工合である。そして郵便物を載せた銀盤を卓の一番端の処へ、注意してそっと置いた。この銀盤は偶然だが、実際あ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・何処の家でも今燈火を点けている。そうすると狭い壁と壁との間に迷や涙で包まれた陰気な世界が出来て、人の心はこの中に擒にせられてしまうのだ。あるいは幾人か集って遠い処に行っている一人を思ったり、あるいは誰か一人に憂き事があるというと、皆が寄って・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・けれども景色が余り広いと写実に遠ざかるから今少し狭く細かく写そうと思うて、月が木葉がくれにちらちらして居る所、即ち作者は森の影を踏んでちらちらする葉隠れの月を右に見ながら、いくら往ても往ても月は葉隠れになったままであって自分の顔をかっと照す・・・ 正岡子規 「句合の月」
出典:青空文庫