・・・珈琲店の軒には花樹が茂り、町に日蔭のある情趣を添えていた。四つ辻の赤いポストも美しく、煙草屋の店にいる娘さえも、杏のように明るくて可憐であった。かつて私は、こんな情趣の深い町を見たことがなかった。一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう。・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・と、小万も吉里が気に触らないほどにと言葉を添えた。「また無理をお言いだよ」と、吉里は猪口を乾して、「はい、兄さん。本統に善さんにゃ気の毒だとは思うけれど、顔を見るのもいやなんだもの。信切な人ではあるし……。信切にされるほど厭になるんだも・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・らざるのみならず、甚だしきに至りて、その狼藉無状の挙動を目して磊落と称し、赤面の中に自ずから得意の意味を含んで、世間の人もこれを許して問わず、上流社会にてはその人を風流才子と名づけて、人物に一段の趣を添えたるが如くに見え、下等の民間において・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・という形容語を冠せ、「影」の下に「うす黒き」という形容語を添えて、ことさらに重複せしめたるは、霜の白さを強く現さんとの工夫なり。その成功はともかくも、その著眼の高きことは争うべからず。 曙覧は擬古の歌も詠み、新様の歌も詠み、慷慨激烈の歌・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・鍵まで添えてあったのです。「ははあ、何かの料理に電気をつかうと見えるね。金気のものはあぶない。ことに尖ったものはあぶないと斯う云うんだろう。」「そうだろう。して見ると勘定は帰りにここで払うのだろうか。」「どうもそうらしい。」・・・ 宮沢賢治 「注文の多い料理店」
・・・ また、或る婦人雑誌はその背後にある団体独特の合理主義に立ち、そして『婦人画報』は、或る趣味と近代機智の閃きを添えて、いずれも、これらのトピックを語りふるして来たものである。 ところが、今日、これらの題目は、この雑誌の上で、全く堂々・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・住持が盥に水を取って、剃刀を添えて出した。忠利は機嫌よく児小姓に髯を剃らせながら、住持に言った。「どうじゃな。この剃刀では亡者の頭をたくさん剃ったであろうな」と言った。住持はなんと返事をしていいかわからぬので、ひどく困った。このときから忠利・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・彼は部屋の壁々に彼女の母の代りに新しい花を差し添えた。シクラメンと百合の花。ヘリオトロオプと矢車草。シネラリヤとヒアシンス。薔薇とマーガレットと雛罌粟と。「お前の顔は、どうしてそう急に美しくなったのだろう。お前は十六の娘のようだ。お前は・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・ゃる、お側へツッ伏して、平常教えて下すった祈願の言葉を二た度三度繰返して誦える中に、ツートよくお寐入なさった様子で、あとは身動きもなさらず、寂りした室内には、何の物音もなく、ただ彼の暖炉の明滅が凄さを添えてるばかりでした。子供ながらもその場・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・私を愛してくれる者はもちろんそれを承知してその集中を妨げないように、もしくはそれを強めるように、力を添えてくれます。しかし自分を犠牲にしてまでそれに尽くしてくれる者はただ一人きりです。他の者たちは、私からされるように望んでいる事を私が果たさ・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫