・・・――いまから三十五年まえ、父はその頃まだ存命中でございまして、私の一家、と言いましても、母はその七年まえ私が十三のときに、もう他界なされて、あとは、父と、私と妹と三人きりの家庭でございましたが、父は、私十八、妹十六のときに島根県の日本海に沿・・・ 太宰治 「葉桜と魔笛」
・・・あの一段高い米の叺の積み荷の上に突っ立っているのが彼奴だ。苦しくってとても歩けんから、鞍山站まで乗せていってくれと頼んだ。すると彼奴め、兵を乗せる車ではない、歩兵が車に乗るという法があるかとどなった。病気だ、ご覧の通りの病気で、脚気をわずら・・・ 田山花袋 「一兵卒」
襟二つであった。高い立襟で、頸の太さの番号は三十九号であった。七ルウブル出して買った一ダズンの残りであった。それがたったこの二つだけ残っていて、そのお蔭でおれは明日死ななくてはならない。 あの襟の事を悪くは言いたくない・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・今のドイツで一番高いゴチックの寺塔のあるという外には格別世界に誇るべき何物をも有たないらしいこの市名は偶然にこの科学者の出現と結び付けられる事になった。この土地における彼の幼年時代について知り得られる事実は遺憾ながら極めて少ない。ただ一つの・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・「この辺の土地はなかなか高いだろう」「なかなか高いです」 道路の側の崖のうえに、黝ずんだ松で押し包んだような新築の家がいたるところに、ちらほら見えた。塀や門構えは、関西特有の瀟洒なものばかりであった。「こちらへ行ってみましょ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・しかしながら不幸にして皇后陛下は沼津に御出になり、物の役に立つべき面々は皆他界の人になって、廟堂にずらり頭を駢べている連中には唯一人の帝王の師たる者もなく、誰一人面を冒して進言する忠臣もなく、あたら君徳を輔佐して陛下を堯舜に致すべき千載一遇・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・むかし細川藩の国家老とか何とかいう家柄をじまんにして、高い背に黄麻の単衣をきちんときている。椅子をひきずってきて腰かけながら、まだいっていたが、「なんだ、青井さ、一人か」 と、気がついたふうに、それから廊下をへだてた、まだ夜業をして・・・ 徳永直 「白い道」
・・・焔はなくて、湿った白い烟ばかりが、何とも云えぬ悪臭を放ちながら、高い老樹の梢の間に立昇る。老樹の梢には物すごく鳴る木枯が、驚くばかり早く、庭一帯に暗い夜を吹下した。見えない屋敷の方で、遠く消魂しく私を呼ぶ乳母の声。私は急に泣出し、安に手を引・・・ 永井荷風 「狐」
・・・天井を見ると左右は低く中央が高く馬の鬣のごとき形ちをしてその一番高い背筋を通して硝子張りの明り取りが着いている。このアチックに洩れて来る光線は皆頭の上から真直に這入る。そうしてその頭の上は硝子一枚を隔てて全世界に通ずる大空である。眼に遮るも・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ シャロットの野に麦刈る男、麦打つ女の歌にやあらん、谷を渡り水を渡りて、幽かなる音の高き台に他界の声の如く糸と細りて響く時、シャロットの女は傾けたる耳を掩うてまた鏡に向う。河のあなたに烟る柳の、果ては空とも野とも覚束なき間より洩れ出づる・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫