・・・十一時頃、やっとお目ざめになり、新聞ないかあと言い、寝床に腹這いになりながら、ひとしきり朝刊の検閲をして、それから縁側に出て支那の煙草をくゆらす。「鬚を、剃らないか。」私は朝から何かと気をもんでいたのだ。「そんな必要も無いだろう。」・・・ 太宰治 「佳日」
・・・ざぶりと波の音。釣竿を折る。鴎が魚を盗みおった。メルシイ、マダム。おや、口笛が。――なんのことだか、わからない。まるで、出鱈目である。これが、小説の筋書である。朝になると、けろりと忘れている百千の筋書のうちの一つである。それからそれと私は、・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・宿から釣竿を借りて、渓流の山女釣りを試みる時もある。一匹も釣れた事は無い。実は、そんなにも釣を好きでは無いのである。餌を附けかえるのが、面倒くさくてかなわない。だから、たいてい蚊針を用いる。東京で上等の蚊針を数種買い求め、財布にいれて旅に出・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・るということについては今更にいうまでもないのであるが、この傾向に伴う一つの重大な弊は、学者が自分の専門に属する一つの学全体としての概景を見失ってしまい、従って自分の専門と他の専門との間の関係についての鳥瞰的認識を欠くようになるということであ・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・研究題目は上長官の命令で決まっており、その上に始めから日限つきでその日までにはどうでも目鼻をつけなければならないこともある。実におそらく最も不自由な場合であるが、面白いことには、学者によってはこの狭い天地の中でさも愉快そうに自由自在に活動し・・・ 寺田寅彦 「学問の自由」
・・・同時に反応的にまたこれらの機関の発達を刺激していることも事実であろうが、とにかく高速度印刷と高速度運搬の可能になった結果としてその日の昼ごろまでの出来事を夕刊に、夜中までの事件を朝刊にして万人の玄関に送り届けるということが可能になった、この・・・ 寺田寅彦 「ジャーナリズム雑感」
・・・ 科学に関する理解のはなはだ薄い上長官からかなり無理な注文が出ても、技師技手は、それはできないなどということはできない地位におかれている。それでできないものをでかそうとすれば何かしら無理をするとかごまかすとかするよりほかに道はない、とい・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・せっかく続けている観測も上長官が交迭して運悪く沿革も何も考えぬような後任者が来ると、こんな事やっても何にもならんじゃないかの一言で中止になるという恐れがあった。おまけに万一にも眼界の狭い偏執的な学者でも出て来て、自分に興味のないような事項の・・・ 寺田寅彦 「新春偶語」
・・・ 東京付近へドライヴに出るとき気のついたことは、たいていの運転手が陸地測量部地形図を利用しないでかえって坊間で売っている不正確な鳥瞰的地図を使っていることである。どうも地形図の読み方をよく知らない運転手が多いらしい。しかしまた前記のよう・・・ 寺田寅彦 「地図をながめて」
・・・座敷の縁側の軒下に投網がつり下げてあって、長押のようなものに釣竿がたくさん掛けてある。何時間で乙の旅人が甲の旅人に追い着くかという事がどうしてもわからぬ、考えていると頭が熱くなる、汗がすわっている足ににじみ出て、着物のひっつくのが心・・・ 寺田寅彦 「花物語」
出典:青空文庫