・・・ただ餅を搗く音だけする。 自分はあるたけの視力で鏡の角を覗き込むようにして見た。すると帳場格子のうちに、いつの間にか一人の女が坐っている。色の浅黒い眉毛の濃い大柄な女で、髪を銀杏返しに結って、黒繻子の半襟のかかった素袷で、立膝のまま、札・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・しかし彼の『省察録』Meditationes などを読んでも、すぐ気附くことは、その考え方の直感的なことである。単に概念的論理的でない。直感的に訴えるものがあるのである。パスカルの語を借りていえば、単に l'esprit de gomtri・・・ 西田幾多郎 「フランス哲学についての感想」
・・・死体が息を吐くなんて――だがどうも息らしかった。フー、フーと極めて微かに、私は幾度も耳のせいか、神経のせいにして見たが、「死骸が溜息をついてる」とその通りの言葉で私は感じたものだ。と同時に腹ん中の一切の道具が咽喉へ向って逆流するような感じに・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・だから、私は彼女に、私が全で焼けつくような眼で彼女の××を見ていると云うことを、知られたくなかったのだ。眼だけを何故私は征服することが出来なかっただろうか。 若し彼女が私の眼を見ようものなら、「この人もやっぱり外の男と同じだわ」と思うに・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 彼等が、川上の捲上小屋へ着く前に、第一発が鳴った。「ハムマー穴のだ!」 小林は思った。音がパーンと鳴ったからだ。 ド、ドワーン!「相鳴りだ。ライナーだな」 二人は、小屋の入口に達していた。 ドドーン、ドドーン、・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・ 船底に引きあげられたイイダコは怒って黒い汁を吐く。内側に向かっても放射するのか、全身が黒くなる。そして、八本足で立って歩きながら逃げようとする。イイダコ釣りは面白いので、私はヒマを見つけるとときどき試みるが、一日に六十匹も引きあげたこ・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・と、吉里は西宮をつくづく視て、うつむいて溜息を吐く。「座敷の花魁は遅うございますことね。ちょいと見て参りますよ」と、お梅は次の間で鉄瓶に水を加す音をさせて出て行ッた。「西宮さん」と、吉里は声に力を入れて、「私ゃどうしたらいいでしょう・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・神戸にはいつごろ着くんでしょう」「神戸に。それは、新橋の汽車でなくッちゃア。まるで方角違いだ」「そう。そうだ新橋だッたんだよ」と、吉里はうつむいて、「今晩の新橋の夜汽車だッたッけ」 吉里は次の間の長火鉢の傍に坐ッて、箪笥にもたれ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・酒のない猪口が幾たび飲まれるものでもなく、食いたくもない下物をむしッたり、煮えつく楽鍋に杯泉の水を加したり、三つ葉を挾んで見たり、いろいろに自分を持ち扱いながら、吉里がこちらを見ておらぬ隙を覘ッては、眼を放し得なかッたのである。隙を見損なッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・あるいはこれを捨てて用いざらんか、怨望満野、建白の門は市の如く、新聞紙の面は裏店の井戸端の如く、その煩わしきや衝くが如く、その面倒なるや刺すが如く、あたかも無数の小姑が一人の家嫂を窘るに異ならず。いかなる政府も、これに堪ゆること能わざるにい・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
出典:青空文庫