・・・それでも己が渡を殺そうと云った、動機が十分でなかったなら、後は人間の知らない力が、(天魔波旬とでも云うが好己の意志を誘って、邪道へ陥れたとでも解釈するよりほかはない。とにかく、己は執念深く、何度も同じ事を繰返して、袈裟の耳に囁いた。 す・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・これがいかなる天魔の化身か、おれを捉えて離さぬのじゃ。おれの一生の不仕合わせは、皆あの女がいたばかりに、降って湧いたと云うても好い。女房に横面を打たれたのも、鹿ヶ谷の山荘を仮したのも、しまいにこの島へ流されたのも、――しかし有王、喜んでくれ・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・…… 自働車の止まったのは大伝馬町である。同時に乗客は三四人、一度に自働車を降りはじめた。宣教師はいつか本を膝に、きょろきょろ窓の外を眺めている。すると乗客の降り終るが早いか、十一二の少女が一人、まっ先に自働車へはいって来た。褪紅色の洋・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・当時僕等のクラスには、久米正雄の如き或は菊池寛の如き、天縦の材少なからず、是等の豪傑は恒藤と違い、酒を飲んだりストオムをやったり、天馬の空を行くが如き、或は乗合自動車の町を走るが如き、放縦なる生活を喜びしものなり。故に恒藤の生活は是等の豪傑・・・ 芥川竜之介 「恒藤恭氏」
・・・科に落つるをままに任せ置たるは、頗る天魔を造りたるものなり。無用の天狗を造り、邪魔を為さするは、何と云う事ぞ。されど「じゃぼ」と云う天狗、もとよりこの世になしと云うべからず。ただ、DS 安助を造り、安助悪魔と成りし理、聞えずと弁ずるのみ。・・・ 芥川竜之介 「るしへる」
・・・さればや一艘の伝馬も来らざりければ、五分間も泊らで、船は急進直江津に向えり。 すわや海上の危機は逼ると覚しく、あなたこなたに散在したりし数十の漁船は、北るがごとく漕戻しつ。観音丸にちかづくものは櫓綱を弛めて、この異腹の兄弟の前途を危わし・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・『牡丹燈籠』は『書生気質』の終結した時より較やおくれて南伝馬町の稗史出版社から若林蔵氏の速記したのを出版したので、講談速記物の一番初めのものである。私は真実の口話の速記を文章としても面白いと思って『牡丹燈籠』を愛読していた。『書生気質』や『・・・ 内田魯庵 「明治の文学の開拓者」
・・・露伴の処女作はこれより以前に『禅天魔』というのがあったが終に発表されなかった。初めて発表されて露伴という名を世間に認めさしたのはこの『露団々』で、初めは『都の花』に連掲され、暫らくしてから単行本となって出版された。が、露伴の名をして一躍芸壇・・・ 内田魯庵 「露伴の出世咄」
・・・海から細く入江になっていて、伝馬や艀がひしひしと舳を並べた。小揚人足が賑かな節を合せて、船から米俵のような物を河岸倉へ運びこんでいる。晴れきって明るくはあるが、どこか影の薄いような秋の日に甲羅を干しながら、ぼんやり河岸縁に蹲んでいる労働者も・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・やがて随いてこいと言って歩きだしました。私は意志を失ったように随いて行きました。 公園を抜けて、北浜二丁目に出ると、男は東へ東へと歩いて行きます。やがて天満から馬場の方へそれて、日本橋の通りを阿倍野まで行き、それから阪和電車の線路伝いに・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫