・・・しかし往来を歩いていたり、原稿用紙に向っていたり、電車に乗っていたりする間にふと過去の一情景を鮮かに思い浮べることがある。それは従来の経験によると、たいてい嗅覚の刺戟から聯想を生ずる結果らしい。そのまた嗅覚の刺戟なるものも都会に住んでいる悲・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・「負惜しみばかり云っていらあ。田舎へ行けば不便だぜ。アイスクリイムはなし、活動写真はなし、――」 洋一は顔を汗ばませながら、まだ冗談のような調子で話し続けた。「それから誰か病気になっても、急には帰って来られないし、――」「そ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・――御免なさいよ。電車がそりゃこむもんだから。」 お絹はやはり横坐りのまま、器用に泥だらけの白足袋を脱いだ。洋一はその足袋を見ると、丸髷に結った姉の身のまわりに、まだ往来の雨のしぶきが、感ぜられるような心もちがした。「やっぱりお肚が・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 犯人の捜索は極めて秘密に、同時にこんな田舎にしては厳重に行われた。場主の松川は少からざる懸賞までした。しかし手がかりは皆目つかなかった。疑いは妙に広岡の方にかかって行った。赤坊を殺したのは笠井だと広岡の始終いうのは誰でも知っていた。広・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・とは電車の車内広告でよく見た「食うべきビール」という言葉から思いついて、かりに名づけたまでである。 謂う心は、両足を地面に喰っつけていて歌う詩ということである。実人生と何らの間隔なき心持をもって歌う詩ということである。珍味ないしはご馳走・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ ちょうどこの時分、父の訃に接して田舎に帰ったが、家計が困難で米塩の料は尽きる。ためにしばしば自殺の意を生じて、果ては家に近き百間堀という池に身を投げようとさえ決心したことがあった。しかもかくのごときはただこれ困窮の余に出でたことで、他・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・……ちょっと、それにお恥かしいんだけど、電車賃……」 お妻が、段を下りて、廊下へ来た。と、いまの身なりも、損料か、借着らしい。「さ、お待遠様。」「難有い。」「灰皿――灰落しらしいわね。……廊下に台のものッて寸法にいか・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・お土産は電車だ、と云って出たんですのに。―― お雪さんは、歌磨の絵の海女のような姿で、鮑――いや小石を、そッと拾っては、鬼門をよけた雨落の下へ、積み積みしていたんですね。 めそめそ泣くような質ではないので、石も、日も、少しずつ積・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ 東京の物の本など書く人たちは、田園生活とかなんとかいうて、田舎はただのんきで人々すこぶる悠長に生活しているようにばかり思っているらしいが、実際は都人士の想像しているようなものではない。なまけ者ならば知らぬ事、まじめな本気な百姓などの秋・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・其の後は家に一人のこって居たけれ共夫となるべき人もないので五十余歳まで身代のあらいざらいつかってしまったのでしょうことなしに親の時からつかわれて居た下男を夫にしてその土地を出て田舎に引き込んでその日暮しに男が犬をつって居ると自分は髪の油なん・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
出典:青空文庫