・・・そこは、ともかく何万坪という広い構内ですから、本所かいわいの人たちは、だれもそこなら安全だと思って、どんどん荷物をはこびこみました。夜になってからは、いよいよ多くの人が、むりやりにわりこんで来て、ぎっしり一ぱいにつまってしまいました。ところ・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・私はともかく、それよりも、家の人たちは、どんなにつらい思いであろう。去年の秋、私の姉が死んだけれど、家からはなんの知らせもなかった。むりもないことと思い、私はちっとも、うらまなかった。けれども、もし、これは、めっそうもない、不謹慎きわまる、・・・ 太宰治 「花燭」
・・・もう一つの予言はどうなるか分らないが、ともかくも今まで片側だけしか見る事の出来なかった世界は、これを掌上に置いて意のままに任意の側から観る事が出来るようになった。観者に関するあらゆる絶対性を打破する事によって現出された客観的実在は、ある意味・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・――」「これから剛情はやめるよ。――ともかくあした早く四谷へ行って見る事にしよう。今夜これから行っても好いが……」「今夜いらしっちゃ、婆やは御留守居は出来ません」「なぜ?」「なぜって、気味が悪くっていても起ってもいられません・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・私はよく知ッている。それだから、お前さんが得心した上で、平田を故郷へ出発せたいと、こうして平田を引ッ張ッて来るくらいだ。不実に考えりゃア、無断で不意と出発て行くかも知れない。私はともかく、平田はそんな不実な男じゃない、実に止むを得ないのだ。・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・まして日本の如き、その文明の実価はともかくも、西洋流の文明についてはすべて不案内なるこの人民に向い、高尚なる学校教場の知見を丸出しにして実地の用に適せしめんとするも、浮世のように行わるべからざるは明白なる時勢とも心付かずして、我が国人は教育・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾学生諸氏に告ぐ」
・・・その成功はともかくも、その著眼の高きことは争うべからず。 曙覧は擬古の歌も詠み、新様の歌も詠み、慷慨激烈の歌も詠み、和暢平遠の歌も詠み、家屋の内をも歌に詠み、広野の外をも歌に詠み、高山彦九郎をも詠み、御魚屋八兵衛をも詠み、侠家の雪も詠み・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
愛ということばは、いつから人間の社会に発生したものでしょう。愛という言葉をもつようになった時期に、人類はともかく一つの飛躍をとげたと思います。なぜなら、人間のほかの生きものは、愛の感覚によって行動しても、愛という言葉の表象・・・ 宮本百合子 「愛」
・・・しかし閭がいなくては話が成り立たぬから、ともかくもいたことにしておくのである。 さて閭が台州に着任してから三日目になった。長安で北支那の土埃をかぶって、濁った水を飲んでいた男が台州に来て中央支那の肥えた土を踏み、澄んだ水を飲むことになっ・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・ 女。ともかくもお互の間に愉快な、わだかまりの無い記念だけは残っていると云うものでございますね。二人は惚れ合っていました。キスをしました。厭きました。そこでおさらばと云うわけでございますからね。 男。いかにもおっしゃる通りです。・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
出典:青空文庫