・・・胸のところがどきどきとして苦しい程でした。じっと坐っていながら夢で鬼にでも追いかけられた時のように気ばかりせかせかしていました。 教場に這入る鐘がかんかんと鳴りました。僕は思わずぎょっとして立上りました。生徒達が大きな声で笑ったり呶鳴っ・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・僕は胸がどきどきして来ました。 昨日買っていただいた読本の字引きが一番大切で、その次ぎに大切なのは帽子なんだから、僕は悲しくなり出しました。涙が眼に一杯たまって来ました。僕は「泣いたって駄目だよ」と涙を叱りつけながら、そっと寝床を抜け出・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・「吃驚するわね、唐突に怒鳴ってさ、ああ、まだ胸がどきどきする。」 はッと縁側に腰をかけた、女房は草履の踵を、清くこぼれた褄にかけ、片手を背後に、あらぬ空を視めながら、俯向き通しの疲れもあった、頻に胸を撫擦る。「姉さんも弱虫だなあ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 言うまでもなく、女中と分って、ものいいぶりも遠慮なしに、「いまだに、胸がどきどきするね。」 と、どうした料簡だか、ありあわせた籐椅子に、ぐったりとなって肱をもたせる。「あなた、お寒くはございませんの。」「今度は赫々とほ・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ って喚かれましたのに驚きまして、いまだに胸がどきどきいたしまする」 壮佼はしきりに頷けり。「むむ、そうだろう。気の小さい維新前の者は得て巡的をこわがるやつよ。なんだ、高がこれ股引きがねえからとって、ぎょうさんに咎め立てをするにゃあ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・胸も、息も、どきどきしながら。 ゆかただか、羅だか、女郎花、桔梗、萩、それとも薄か、淡彩色の燈籠より、美しく寂しかろう、白露に雫をしそうな、その女の姿に供える気です。 中段さ、ちょうど今居る。 しかるに、どうだい。お米坊は洒落に・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・なんだか胸がどきどきして、急になよなよと友達の肩に寄りかかって、「うっちゃって置くと、ひどくなるんですって」 胸を病んでいると宣告されたような不安な顔をわざとして見せたが、そのくせちっとも心配なぞしていなかった。むしろいそいそとした・・・ 織田作之助 「眼鏡」
・・・胸がどきどきしたものだ」と、さらに他の号外に移る。 ――戦死者中福井丸の広瀬中佐および杉野兵曹長の最後はすこぶる壮烈にして、同船の投錨せんとするや、杉野兵曹長は爆発薬を点火するため船艙におりし時、敵の魚形水雷命中したるをもって、ついに戦・・・ 国木田独歩 「号外」
・・・ 松木は、暫らく胸がどきどきするのが止まらなかった。彼は、武石だと知ると同時に、吉永から貰った金で、すぐさま、女の喜びそうなものを買って来たことをきまり悪く思った。「砂糖とパイナップルは置いて来ればよかった。」「誰れかさきに、ここへ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれ・・・ 太宰治 「女生徒」
出典:青空文庫