・・・欣弥 (顔を上げながら、万感胸に交々、口吃撫子 (慌太夫さん。白糸 私は……今日は見物さ。欣弥 おい、お茶を上げないかい。何は、何は、何か、菓子は。撫子 白糸 そんなに、何も、お客あつかい。敬して何とかってしなくって・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・私は体の休まるとともに、万感胸に迫って、涙は意気地なく頬を湿らした。そういう中にも、私の胸を突いたのは今夜の旅籠代である。私もじつは前後の考えなしにここへ飛びこんだものの、明朝になればさっそく払いに困らねばならぬ。この地へ着くまでに身辺のも・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・いつもびくびくして、自己の力を懐疑し、心の落ちつく場所は無く、お寺へかよって禅を教えてもらったり、或いは部屋に閉じこもって、手当り次第、万巻いや千巻くらいの書を読みちらしたり、大酒を飲んだり、女に惚れた真似をしたり、さまざまに工夫してみたの・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・ある時はいとしい恋人の側で神鳴の夜の物語して居る処を夢見て居る。ある時は天を焦す焔の中に無数の悪魔が群りて我家を焼いて居る処を夢見て居る。ある時は万感一時に胸に塞がって涙は淵を為して居る。ある時は惘然として悲しいともなく苦しいともなく、我に・・・ 正岡子規 「恋」
出典:青空文庫