・・・それが午過になってまただんだん険悪に陥ったあげく、とうとう絶望の状態まで進んで来た時は、余が毎日の日課として筆を執りつつある「彼岸過迄」をようやく書き上げたと同じ刻限である。池辺君が胸部に末期の苦痛を感じて膏汗を流しながらもがいている間、余・・・ 夏目漱石 「三山居士」
・・・夫でペリカンの方でも半ば余に愛想を尽かし、余の方でも半ばペリカンを見限って、此正月「彼岸過迄」を筆するときは又一と時代退歩して、ペンとそうしてペン軸の旧弊な昔に逆戻りをした。其時余は始めて離別した第一の細君を後から懐かしく思う如く、一旦見棄・・・ 夏目漱石 「余と万年筆」
・・・九月も末に近く、彼岸を過ぎた山の中では、もうすっかり秋の季節になっていた。都会から来た避暑客は、既に皆帰ってしまって、後には少しばかりの湯治客が、静かに病を養っているのであった。秋の日影は次第に深く、旅館の侘しい中庭には、木々の落葉が散らば・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 蕪村の句は行く春や選者を恨む歌の主命婦より牡丹餅たばす彼岸かな短夜や同心衆の川手水少年の矢数問ひよる念者ぶり水の粉やあるじかしこき後家の君虫干や甥の僧訪ふ東大寺祇園会や僧の訪ひよる梶がもと味噌汁をく・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・―― 私共の家にいる文鳥は、名こそ文鳥だけれども、どうも、「彼岸過迄、四篇」の文鳥とは、たちが異うように思われる。漱石先生の心が華奢であったのか、私の見る文鳥は、決してあれほど、ろうたくはない。こまやかな銀灰色の体がぽってりと大らかで、・・・ 宮本百合子 「小鳥」
・・・ 息もつまりそうにうっそうと茂ったエルムの梢を、そよりとも動かす微風もなくて、静かに横わった湖水から、彼岸の山にかけて、むっとした息のような霞が掛って居る。何時とはなく肌がしめるような部屋で机に倚りながら、東京ももうさぞ暑い事だろうなと・・・ 宮本百合子 「樹蔭雑記」
・・・春の彼岸頃、石川は今度こそ本物の球根を運んで来て花床に植込んだ。「旦那、こっちの方がようございます。あれは駄目ですよ、もう」「そうかい」 水をやりすぎるので、ダリヤは夏が来ると茎と葉ばかり堂々と丈高く繁った。青い繁みの頂上に、そ・・・ 宮本百合子 「牡丹」
・・・「乗る舟は弘誓の舟、着くは同じ彼岸と、蓮華峰寺の和尚が言うたげな」 二人の船頭はそれきり黙って舟を出した。佐渡の二郎は北へ漕ぐ。宮崎の三郎は南へ漕ぐ。「あれあれ」と呼びかわす親子主従は、ただ遠ざかり行くばかりである。 母親は物狂おし・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・発展というものを認めないショオペンハウエルの彼岸哲学が超人を説くニイチェの此岸哲学をも生んだのである。 学者というものも、あの若い時に廃人同様になって、おとなしく世を送ったハルトマンや、大学教授の職に老いるヴントは別として、ショオペンハ・・・ 森鴎外 「沈黙の塔」
・・・八月から九月の中ごろ、秋の彼岸のころへかけては、非常に徐々としてではあるが、だんだん色が明るくなって行き、彼岸が過ぎたころには、緑の色調全体がいかにも秋らしい感じになる。 少しずつ黄色が目立ちはじめるのは、十月になってからであったと思う・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫