・・・ただ一つの逸話として伝えられているのは、彼が五歳の時に、父から一つの羅針盤を見せられた事がある、その時に、何ら直接に接触するもののない磁針が、見えざる力の作用で動くのを見て非常に強い印象を受けたという事である。その時の印象が彼の後年の仕事に・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ただ事がらが非情の物質と、それに関する抽象的な概念の関係に属するために、明白な陳套な語で言い現わされるような感情の動揺を感じることはないであろうが、真なるものを把握することの喜びには、別に変わりはないであろう。 それだのに文学と科学とい・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・ すると林は、それだけだが、非常にはっきりと、顔をあげて言ったのだった。私はその瞬間、一ぺんに身体があつくなってきて、グーン、グーン、と空へのぼってゆく気がした。 二 林は五年生のとき、私たちの学校へ入ってきた子・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・井戸はこれこそ私が忘れようとしても忘られぬ最も恐ろしい当時の記念である。井戸は非常に深いそうで、流石の安も埋めようとは試みなかった。現在は如何なる人の邸宅になって居るか知らぬけれど、あの井戸ばかりは依然として、古い古い柳の老木と共に、あの庭・・・ 永井荷風 「狐」
・・・彼はうまく使えば非常な働手であった。彼は一剋者である。一旦怒らせたら打っても突いてもいうことを聴くのではない。性癖は彼の父の遺伝である。だが甞て乱暴したということもなくてどっちかというと酷く気の弱い所のあるのは彼の母の気質を禀けたのであった・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・五十年間案内者を専門に修業したものでもあるまいが非常に熟練したものである。何年何月何日にどうしたこうしたとあたかも口から出任せに喋舌っているようである。しかもその流暢な弁舌に抑揚があり節奏がある。調子が面白いからその方ばかり聴いていると何を・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・本来の性質からは、それは幾何学のものよりも、一層明晰なものなのであるが、我々が感官から得た、幼時から馴された、種々なる先入見と一致せないかに見えるものから非常に注意深く、精神をできるだけ感官から引離そうと努力する人によってのみ理解せられるの・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・の中には、ニイチェが非常に著るしく現れて居り、死を直前に凝視してゐたこの作者が、如何に深くニイチェに傾倒して居たかがよく解る。 西洋の詩人や文学者に、あれほど広く大きな影響をあたへたニイチェが、日本ではただ一人、それも死前の僅かな時期に・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・これが昼間見たのだったら何の不思議もなくて倉庫につけられた非常階段だと思えるだろうし、又それほどにまで気を止めないんだろうが、何しろ、私は胸へピッタリ、メスの腹でも当てられたような戦慄を感じた。 私は予感があった。この歪んだ階段を昇ると・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・どうも非常な力だ」「しッかりおしよ。吉里さんしッかりおしよ。反ッちゃアいけないのに、あらそんなに反ッちゃア」「平田はどうした。平田は、平田は」「平田さんですか」 いつかお梅も此室に来て、驚いて手も出ないで、ぼんやり突ッ立ッて・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫