・・・この橋はやや高いから、船に乗った心地して、まず意を安んじたが、振り返ると、もうこれも袂まで潮が来て、海月はひたひたと詰め寄せた。が、さすがに、ぶくぶくと其処で留った、そして、泡が呼吸をするような仇光で、 と曳々声で、水を押し・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ と片手の畚を動かすと、ひたひたと音がして、ひらりと腹を飜した魚の金色の鱗が光った。「見事な鯉ですね。」「いやいや、これは鮒じゃわい。さて鮒じゃがの……姉さんと連立たっせえた、こなたの様子で見ればや。」 と鼻の下を伸して、に・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ 提灯もやがて消えた。 ひたひたと木の葉から滴る音して、汲かえし、掬びかえた、柄杓の柄を漏る雫が聞える。その暗くなった手水鉢の背後に、古井戸が一つある。……番町で古井戸と言うと、びしょ濡れで血だらけの婦が、皿を持って出そうだけれども・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ 三 鼻の隆いその顔が、ひたひたと横に寄って、胸に白粉の着くように思った。 宗吉は、愕然とするまで、再び、似た人の面影をその女に発見したのである。 緋縮緬の女は、櫛巻に結って、黒縮緬の紋着の羽織を撫肩にぞ・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 夜陰のこんな場所で、もしや、と思う時、掻消えるように音が留んで、ひたひたと小石を潜って響く水は、忍ぶ跫音のように聞える。 紫玉は立留まった。 再び、名もきかぬ三味線の音が陰々として響くと、――日本一にて候ぞと申しける。・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 聞き澄すと、潟の水の、汀の蘆間をひたひたと音訪れる気勢もする。……風は死んだのに、遠くなり、近くなり、汽車が谺するように、ゴーと響くのは海鳴である。 更に遠く来た旅を知りつつ、沈むばかりに階段を下切った。 どこにも座敷がない、・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ ひたひたと絡る水とともに、ちらちらと紅に目を遮ったのは、倒に映るという釣鐘の竜の炎でない。脱棄てた草履に早く戯るる一羽の赤蜻蛉の影でない。崖のくずれを雑樹また藪の中に、月夜の骸骨のように朽乱れた古卒堵婆のあちこちに、燃えつつ曼珠沙華が・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・浪打際は綿をば束ねたような白い波、波頭に泡を立てて、どうと寄せては、ざっと、おうように、重々しゅう、飜ると、ひたひたと押寄せるが如くに来る。これは、一秒に砂一粒、幾億万年の後には、この大陸を浸し尽そうとする処の水で、いまも、瞬間の後も、咄嗟・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・夕暮の鷺が長い嘴で留ったようで、何となく、水の音も、ひたひたとするようだったが、この時、木菟のようになって、とっぷりと暮れて真暗だった。「どうした、どうした。……おお、泣いているのか。――私は……」「ああれ、旦那さん。」 と・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ こう思うと、僕の生涯が夢うつつのように目前にちらついて来て、そのつかまえどころのない姿が、しかもひたひたと、僕なる物に浸り行くようになった。そして、形あるものはすべて僕の身に縁がないようだ。 僕の目の前には、僕その物の幻影よりほか・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
出典:青空文庫