・・・それで、その日の別れぎわ、明日の夕方生国魂神社の境内で会おうと、断られるのを心配しながら豹一がびくびくしながら言いだすと、まるで待っていたかのように嬉しく承諾し、そして約束の時間より半時間も早く出かけて待っていた。 その夕方、豹一は簡単・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ 忘れていたんかと、肩を敲かれそうになったのを、易者はびくっと身を退けて、やっと、「五年振りやな」 小さく言った。 忘れている筈はない。忘れたかったぐらいであると、松本の顔を見上げた。習慣でしぜん客の人相を見る姿勢に似たが、・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・その間僕は炉のそばに臥そべっていたが、人々のうちにはこの家の若いものらが酌んで出す茶椀酒をくびくびやっている者もあった。シカシ今井の叔父さんはさすがにくたぶれてか、大きな体躯を僕のそばに横たえてぐうぐう眠ってしまった。炉の火がその膩ぎった顔・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・ 老人はびく/\動いた。 氷のような悪寒が、電流のように速かに、兵卒達の全身を走った。彼等は、ヒヤッとした。栗島は、いつまでも太股がブル/\慄えるのを止めることが出来なかった。軍刀は打ちおろされたのであった。 必死の、鋭い、号泣・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・が、お里の方では、そんなことで良人が心を使って病気が長びくと困ると思っていた。清吉の前では快活に骨身を惜まずに働いた。 木は、三百束ばかりあった。それだけを女一人で海岸まで出すのは容易な業ではなかった。 お里が別に苦しそうにこぼしも・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・叱責の種子にはなるまいかと鬼胎を抱くこと大方ならず、かつまた塩文とびを買って来いという命令ではあったが、それが無かったのでその代りとして勧められた塩鯖を買ったについても一ト方ならぬ鬼胎を抱いた源三は、びくびくもので家の敷居を跨いでこの経由を・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・同伴の方へ出向きたるにこれは頂かぬそれでは困ると世間のミエが推っつやっつのあげくしからば今一夕と呑むが願いの同伴の男は七つのものを八つまでは灘へうちこむ五斗兵衛が末胤酔えば三郎づれが鉄砲の音ぐらいにはびくりともせぬ強者そのお相伴の御免蒙りた・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・そのため、東京市中や市外の要所々々にも歩哨が立ち、暴徒しゅう来等の流言にびくびくしていた人たちもすっかり安神しましたし、混雑につけ入って色んな勝手なことをしがちな、市中一たいのちつじょもついて来ました。出動部隊は近衛師団、第一師団のほか、地・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・月夜にはの、あれが自分の影に怖れてびくびくするけに痩せるんでがんすといの」 村の水天宮様の御威徳を説く時の顔つきである。「ほほほ」「おもしろいな、それは」「そんなら食べなんすか」「食べるよ」「じゃ、よかった」と、また・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・鉄石の義心は、びくともせず、之を叱咤し統御し、ついに約束の自由の土地まで引き連れて来ました。モーゼは、ピスガの丘の頂きに登って、ヨルダン河の流域を指差し、あれこそは君等の美しい故郷だ、と教えて、そのまま疲労のために死にました。四十年間、私は・・・ 太宰治 「風の便り」
出典:青空文庫