・・・それでも、心のどこかで、びくびくしていて、こまります。あの夜、僕はとりみだし荒んだ歩調で階段を降りました。そしてそのとりみだし方も純粋でなかったようではずかしく、思いだしては、首をちぢめています。その夜、斎藤君はおもわせぶりであるとあなたに・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・まさか襟がさきへ帰ってはいまいとは思いながら、少しびくびくものでホテルへ帰った。さも忙しいという風をしてホテルの門を通り掛かった。門番が引き留めた。そしてうやうやしく一つの包みを渡すのである。同じ紙で包んで、同じ紐で縛ってある。おれははっと・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・理由のない不安と憂鬱の雰囲気のようなものが菖蒲や牡丹の花弁から醸され、鯉幟の翻る青葉の空に流れたなびくような気がしたものである。その代り秋風が立ち始めて黍の葉がかさかさ音を立てるころになると世の中が急に頼もしく明るくなる。従って一概に秋を悲・・・ 寺田寅彦 「五月の唯物観」
・・・それだからこそ、颱風が吹いても地震が揺ってもびくとも動かぬ殿堂が出来たのである。二千年の歴史によって代表された経験的基礎を無視して他所から借り集めた風土に合わぬ材料で建てた仮小屋のような新しい哲学などはよくよく吟味しないと甚だ危ないものであ・・・ 寺田寅彦 「津浪と人間」
・・・ひびく声であった。三吉は橋の袂までいって、すぐあと戻りした。流れのはやさと一緒になって坂をのぼり、熊本城の石垣をめぐって、田甫に沿うた土堤うえの道路にでる。途中で流れはいくつにもくずれていって、そのへんで人影は少くなった。土堤の斜面はひかげ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・そうした時は屹度上脣の右の方がびくびくと釣って恐ろしい相貌になる。彼の怒は蝮蛇の怒と同一状態である。蝮蛇は之を路傍に見出した時土塊でも木片でも人が之を投げつければ即時にくるくると捲いて決して其所を動かない。そうして扁平な頭をぶるぶると擡げる・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・こう書いたら笑われるだろう、ああ云ったら叱られるだろうと、びくびくして筆を執るから、あの男は腹の中がかたまっておらん、理想が生煮だ、という弱点が書物の上に見え透くように写っている、したがっていかにも意気地がない。いくら技巧があったって、これ・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・弟はまたそれが不愉快でたまらないのだけれども、兄が高圧的に釣竿を担がしたり、魚籃を提げさせたりして、釣堀へ随行を命ずるものだから、まあ目を瞑ってくっついて行って、気味の悪い鮒などを釣っていやいや帰ってくるのです。それがために兄の計画通り弟の・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・人目を忍び、露見を恐れ、絶えずびくびくとして逃げ回っている犯罪者の心理は、早く既に、子供の時の僕が経験して居た。その上僕は神経質であった。恐怖観念が非常に強く、何でもないことがひどく怖かった。幼年時代には、壁に映る時計や箒の影を見てさえ引き・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・ 子供らは叫んで逃げ出そうとしましたが、大人はびくともしないで、声をそろえて云いました。「山男、これからいたずら止めて呉ろよ。くれぐれ頼むぞ、これからいたずら止めで呉ろよ。」 山男は、大へん恐縮したように、頭をかいて立って居りま・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
出典:青空文庫