・・・そうかと思うと私の耳は不意に音楽を離れて、息を凝らして聴き入っている会場の空気に触れたりした。よくあることではじめは気にならなかったが、プログラムが終わりに近づいてゆくにつれてそれはだんだん顕著になって来た。明らかに今夜は変だと私は思った。・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・ 文公は不意に起こされたので、驚いて起き上がりかけたのを弁公が止めたので、また寝て、その言うことを聞いてただうなずいた。 あまり当てにならない留守番だから、雨戸を引きよせて親子は出て行った。文公は留守居と言われたのですぐ起きていたい・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・磯吉はふいと起って土間に下りて麻裏を突掛けるや戸外へ飛び出した。戸外は月冴えて風はないが、骨身に徹える寒さに磯は大急ぎで新開の通へ出て、七八丁もゆくと金次という仲間が居る、其家を訪ねて、十時過まで金次と将棋を指して遊んだが帰掛に一寸一円貸せ・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・「おや、こいつはまた偽札じゃないか。」不意に松本がびっくりして、割れるように叫んだ。「何だ、何だ!」「こいつはまた偽札だ。――本当に偽札だ!」 その声は街へ遊びに行くのがおじゃんになったのを悲しむように絶望的だった。「ど・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・血に染った剣はふいても、ふいてもすぐ錆が来た。それを彼等は、土でこすって研ぐのだった。 栗本は剣身の歪んだ剣を持っていた。彼は銃に着剣して人間を突き殺したことがある。その時、剣が曲ったのだ。突かれた男は、急所を殴られて一ッぺんに参る犬の・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・身体は其儘、不意に出あっても、心中は早くも立直ったのだ。自分の方では何とすることもせず、先方の出を見るのみに其瞬間は埋められたのであった。然し先方は何のこだわりも無く、身を此方へ近づけると同時に、何の言葉も無く手をさしのべて、男の手を探り取・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・お君は口の中でくりかえして見た……我等の前衛を奪カンせよ。――日本中の工場がみんなその為にストライキを起したら、そうだ、その通りだと思った。お君は不意に走り出した。何かジッとしていられない気持になったのだ。皆の所へ行かなければならないと思っ・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・前言うまいあなたの安全器を据えつけ発火の予防も施しありしに疵もつ足は冬吉が帰りて後一層目に立ち小露が先月からのお約束と出た跡尾花屋からかかりしを冬吉は断り発音はモシの二字をもって俊雄に向い白状なされと不意の糺弾俊雄はぎょッとしたれど横へそら・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・なれども当人は平気で、口の内で謡をうたい、或はふいと床から起上って足踏をいたして、ぐるりと廻って、戸棚の前へぴたりと坐ったり何か変なことをいたし、まるで狂人じみて居ります。ちょうど歳暮のことで、内儀「旦那え/\」七「えゝ」内儀「・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・三郎は口をふいて、そこにある箪笥を背に足を投げ出した。次郎は床柱のほうへ寄って、自分で装置したラジオの受話器を耳にあてがった。細いアンテナの線を通して伝わって来る都会の声も、その音楽も、当分は耳にすることのできないかのように。 その晩は・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫