・・・そのとき、汽車は、山と山の間を深い谷に沿うて走っていたのです。「まあ、山は真っ白だこと、ここから雪になるんだわ。」 年子は、思わずこういって目をみはりました。「山を越してごらんなさい。三尺も、四尺もありますさかい。おまえさんは、・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・少なくも、その書中から、滋養を摂るのに、それも稀にしかない本でゞもないかぎり、手垢がついていては、不快を禁ずることができないのであります。 書物でも、雑誌でも、私はできるだけ綺麗に取扱います。それなら、それ程、書物というものをありがたく・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・後、キリリとした目鼻立ちの、どこかイナセには出来ていても、真青な色をして、少し腫みのある顔を悲しそうに蹙めながら、そっと腰の周囲をさすっているところは男前も何もない、血気盛りであるだけかえってみじめが深い。 差し向って坐ったお光は、「私・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・なにしろ、嫉妬深い男ですよって」 女はにこりともせずにそう言うと、ぎろりと眇眼をあげて穴のあくほど私を見凝めた。 私は女より一足先に宿に帰り、湯殿へ行った。すると、いつの間に帰っていたのか、隣室の男がさきに湯殿にはいっていた。 ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・そして何を考えることも、何を怖れるというようなことも、出来ない程疲れて居る気持から、無意味な深い溜息ばかしが出て来るような気がされていた。「お父さん、僕エビフライ喰べようかな」 寿司を平らげてしまった長男は、自分で読んでは、斯う並ん・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 芳本は日増に不快と焦燥の念に悩まされて、暗い顔してうっそりかまえている耕吉に、毎日のようにこんなことを言いだした。「まさか……」 惣治はいよいよ断末魔の苦しみに陥っていることを思いながらも、耕吉もそうした疑惑に悩まされて行った・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ その青年の顔にはわずかばかりの不快の影が通り過ぎたが、そう答えて彼はまた平気な顔になった。「そうだ。いや、僕はね、崖の上からそんな興味で見る一つの窓があるんですよ。しかしほんとうに見たということは一度もないんです。でも実際よく瞞さ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・町の高みには皇族や華族の邸に並んで、立派な門構えの家が、夜になると古風な瓦斯燈の点く静かな道を挾んで立ち並んでいた。深い樹立のなかには教会の尖塔が聳えていたり、外国の公使館の旗がヴィラ風な屋根の上にひるがえっていたりするのが見えた。しかしそ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・その冷ややかな陰の水際に一人の丸く肥ッた少年が釣りを垂れて深い清い淵の水面を余念なく見ている、その少年を少し隔れて柳の株に腰かけて、一人の旅人、零落と疲労をその衣服と容貌に示し、夢みるごときまなざしをして少年をながめている。小川の水上の柳の・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ そして来て見ると、兼ねて期したる事とは言え、さてお正は既にいないので、大いに失望した上に、お正の身の上の不幸を箱根細工の店で聞かされたので、不快に堪えず、流れを泝って渓の奥まで一人で散歩して見たが少しも面白くない、気は塞ぐ一方であるか・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
出典:青空文庫