・・・ ハンケチで顔を拭く。「泣いてるんじゃねえだろうな。」「いいえ、雨で眼鏡の玉が曇って、……」「いや、その声は泣いてる声だ。とんだ色男さ。」 闇商売の手伝いをして、道徳的も無いものだが、その文士の指摘したように、田島という・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・昔話をするのか、大法螺を吹くのかと思われるのである。ところが、それが事実である。三方四方がめでたく納まった話であるから、チルナウエルは生涯人に話しても、一向差支はないのである。 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ポルジイのドリスを愛することは、知り合いになってから、月日が立つと共に、深くなって来る。どんなに面白い女か、どんな途方もない落想のある女かと云うことが、段々知れて来るのである。貴族仲間の禁物は退屈と云うものであるに、ポルジイはこの女と一しょ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ 褐色の道路――砲車の轍や靴の跡や草鞋の跡が深く印したままに石のように乾いて固くなった路が前に長く通じている。こういう満州の道路にはかれはほとんど愛想をつかしてしまった。どこまで行ったらこの路はなくなるのか。どこまで行ったらこんな路は歩・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・この男の通らぬことはいかな日にもないので、雨の日には泥濘の深い田畝道に古い長靴を引きずっていくし、風の吹く朝には帽子を阿弥陀にかぶって塵埃を避けるようにして通るし、沿道の家々の人は、遠くからその姿を見知って、もうあの人が通ったから、あなたお・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・人にあらねば操觚を学びし人とも覚えずしかるを尚よく斯の如く一吐一言文をなして彼の爲永の翁を走らせ彼の式亭の叟をあざむく此の好稗史をものすることいと訝しきに似たりと雖もまた退いて考うれば単に叟の述る所の深く人情の髄を穿ちてよく情合を写せばなる・・・ 著:坪内逍遥 校訂:鈴木行三 「怪談牡丹灯籠」
・・・しかし家庭の経済は楽でなかったから、ともかくも自分で働いて食わなければならないので、シャフハウゼンやベルンで私教師を勤めながら静かに深く物理学を勉強した。かなりに貧しい暮しをしていたらしい。その時分の研学の仲間に南ロシアから来ている女学生が・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・麦笛を吹くような声でピーピーと鳴き立ててはベランダの前へ寄って来て、飯の余りやせんべいの欠けらをねだるのである。それからまた池にはいったと思うとせわしなく水中にもぐり込んでは底の泥をくちばしでせせり歩く。その水中を泳ぐ格好がなかなか滑稽で愛・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・ホヤの中にほうっと呼気を吹き込んでおいて棒きれの先に丸めた新聞紙できゅうきゅうと音をさせて拭くのであった。 その頃では神棚の燈明を点すのにマッチは汚れがあるというのでわざわざ燧で火を切り出し、先ずホクチに点火しておいてさらに附け木を燃や・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・「一方に靡きそろひて花すゝき、風吹く時そ乱れざりける」で、事ある時などに国民の足並の綺麗に揃うのは、まことに余所目立派なものであろう。しかしながら当局者はよく記臆せなければならぬ、強制的の一致は自由を殺す、自由を殺すはすなわち生命を殺すので・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
出典:青空文庫