・・・その生垣につづいて、傾きかかった門の廡には其文字も半不明となった南畝のへんがくが旧に依って来り訪う者の歩みを引き留める。門をはいると左手に瓦葺の一棟があって其縁先に陶器絵葉書のたぐいが並べてある。家の前方平坦なる園の中央は、枯れた梅樹の伐除・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・、カンラカラカラ笑にあらず、全くの作り笑なり、人から頼まれてする依托笑なり、この依托笑をするためにこの巡査はシックスペンスを得たか、ワン・シリングを得たか、遺憾ながらこれを考究する暇がなかった、 へんツマ巡査などが笑ったってとすぐさま御・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・屋根も異様に細長く、瘠せた鶏の脚みたいに、へんに骨ばって畸形に見えた。「今だ!」 と恐怖に胸を動悸しながら、思わず私が叫んだ時、或る小さな、黒い、鼠のような動物が、街の真中を走って行った。私の眼には、それが実によくはっきりと映像され・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・「意気地のない歩きッ振りじゃないか」と、わざとらしく言う吉里の頬を、西宮はちょいと突いて、「はははは。大分愛想尽しをおっしゃるね」「言いますとも。ねえ、小万さん」「へん、また後で泣こうと思ッて」「誰が」「よし。きっとだね・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・余は宗教の天然説を度外視する者なれば、天の約束というも、人為の習慣というも、そのへんはこれを人々の所見にまかして問うことなしといえども、ただ平安を好むの一事にいたりては、古今人間の実際に行われて違うことなきを知るべきのみ。しからばすなわち教・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
・・・四月三日 今日はいい付けられて一日古い桑の根掘りをしたので大へんつかれた。四月四日、上田君と高橋君は今日も学校へ来なかった。上田君は師範学校の試験を受けたそうだけれどもまだ入ったかどうかはわからない。なぜ農学校を・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 腰の骨が膿んだ云うてやが、そんな事あるもんやろか、 とんときいた事はあらへんがなあ。「え? 腰の骨が膿んだ。 まあまあ、どうしたのやろ、 あかんえなあ。 そいで何どすか、切開でもした様だっか。「うん先月の十一日・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・「へんな塔のある処へ往って見て来ましたよ。」「Malabar hill でしょう。」「あれはなんの塔ですか。」「沈黙の塔です。」「車で塔の中へ運ぶのはなんですか。」「死骸です。」「なんの死骸ですか。」「Parsi・・・ 森鴎外 「沈黙の塔」
・・・今晩はまア、大へんな降りでこざいまして。さア、どうぞ。」 灸の母は玄関の時計の下へ膝をついて婦人にいった。「まアお嬢様のお可愛らしゅうていらっしゃいますこと。」 女の子は眠むそうな顔をして灸の方を眺めていた。女の子の着物は真赤で・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・それより外にはへんがくのようなものは一つも懸けてないらしかった。「あれが友達です。ホオルンベエクと云う隣村の牧師です。やはりわたしと同じように無妻で暮しています。それから余り附合をしないことも同様です。年越の晩には、極まって来ますが、その外・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫