・・・ と、こたえながら、三吉はほんとに呆然としている自分をみた。これはいったいどういうことなのか――前こごみになっている彼女の肩や、紅と紫の合せ帯をしている腰のへん――もうそこにはきのうまでの幻影はかげを消していた。いつもそこで岐れ道になっ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ 利平は、呆然としてしまった。 そんな筈はない……確かに会社の中へ、トラックで送り込んだ筈の利助だったのが……しかし、まごうべくなく利助は、素ッ裸で革命歌を歌っているのだ。「皆さん、着物を着て下さい。御飯も出来ましたよ」 女・・・ 徳永直 「眼」
・・・それよりは矢張見馴れた菊塢が庭を歩いて、茫然として病樹荒草に対していた方が、まだしも不快なる感を起すまいと思うのである。 菊塢の百花園は世人の知るが如く亀戸村の梅園に対して新梅荘と称せられていたが、梅は次第に枯死し、明治四十三年八月の水・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・ 茫然たるアーサーは雷火に打たれたる唖の如く、わが前に立てる人――地を抽き出でし巌とばかり立てる人――を見守る。口を開けるはギニヴィアである。「罪ありと我を誣いるか。何をあかしに、何の罪を数えんとはする。詐りは天も照覧あれ」と繊き手・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・彼は木柵を盾にして、グラウンドの灰色の景色をながめた。その時にはもう深谷の姿は見えなかった。彼は茫然として立ちつくした。なぜかならいくら風のように速い深谷であっても、神通力を持っていないかぎり、そんなに早くグラウンドを通り抜け得るはずがなか・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・善吉はびッくりして起き上ッて急いで障子を開けて見ると、上草履の主ははたして吉里であッた。善吉は茫然として見送ッていると、吉里は見返りもせずに自分の室へ入ッて、手荒く障子を閉めた。 善吉は何か言おうとしたが、唇を顫わして息を呑んで、障子を・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ある時はいとしい恋人の側で神鳴の夜の物語して居る処を夢見て居る。ある時は天を焦す焔の中に無数の悪魔が群りて我家を焼いて居る処を夢見て居る。ある時は万感一時に胸に塞がって涙は淵を為して居る。ある時は惘然として悲しいともなく苦しいともなく、我に・・・ 正岡子規 「恋」
・・・主観的の句の複雑なるうき我に砧打て今は又やみねのごときに至りては蕪村集中また他にあらざるもの、もし芭蕉をしてこれを見せしめば惘然自失言うところを知らざるべし。精細的美 外に広きものこれを複雑と謂い、内に詳らかなるもの・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・(特務曹長ピストルを擬したるまま呆然として佇立す。大将ピストルを奪バナナン大将「もうわかった。お前たちの心底は見届けた。お前たちの誠心に較べてはおれの勲章などは実に何でもないじゃ。おお神はほめられよ。実におん眼からみ・・・ 宮沢賢治 「饑餓陣営」
・・・ 相手は、暫く呆然とされるままになって居たが、やがてはっきり「いやです」と云った。それでも、気の違って居る人は承知しない。猶も執念くつきまとう。終に、男は実に断然たる口調で、「厭だと云ったらいやです」と云いさま、手を振も・・・ 宮本百合子 「或日」
出典:青空文庫