・・・王が大きい方の椅子に坐すと供人が後に立ち、香炉持ハ左右に。紫っぽい細い煙りは絶えず立ちのぼって王の頭の上に舞う。王 法王はわしに会いに参ったそうじゃのう。小姓 御意の通りでございます、陛下。王 呼んでおくりゃれ。・・・ 宮本百合子 「胚胎(二幕四場)」
モスクワに着いてやっと十日めだ。 一九二七年のクリスマスの朝だが、どういうことがあるのか自分たちには見当がつかない。 ソヴェト同盟で、街じゅうが赤旗で飾られるのは春のメー・デー、十一月の革命記念祝祭などだ。 ク・・・ 宮本百合子 「モスクワの姿」
・・・「日出新聞社のものですが、一寸電話口へお出下さいと申すことです。」 木村が電話口に出た。「もしもし。木村ですが、なんの御用ですか。」「木村先生ですか。お呼立て申して済みません。あの応募脚本ですが、いつ頃御覧済になりましょうか・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・しかしこう云う学問はなかなか急拵えに出来る筈のものでないから、少しずつ分かって来れば来る程、困難を増すばかりであった。それでも屈せずに、選んだ問題だけは、どうにかこうにか解決を附けた。自分ではひどく不満足に思っているが、率直な、一切の修飾を・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・祭をする度に、祭るに在すが如くすと云う論語の句が頭に浮ぶ。しかしそれは祖先が存在していられるように思って、お祭をしなくてはならないと云う意味で、自分を顧みて見るに、実際存在していられると思うのではないらしい。いられるように思うのでもないかも・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ツォウォツキイは工場で「こちらで働いていました後家のツァウォツキイと申すものは、ただ今どこに住まっていますでしょうか」と問うた。 住まいは分かった。ツァウォツキイはまた歩き出した。 ユリアは労働者の立てて貰う小家の一つに住んでいる。・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・「これからはまた新田の力で宮方も勢いを増すでおじゃろ。楠や北畠が絶えたは惜しいが、また二方が世に秀れておじゃるから……」「嬉しいぞや。早う高氏づらの首を斬りかけて世を元弘の昔に復したや」「それは言わんでものこと。いかばかりぞその・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・「誰やらん見知らぬ武士が、ただ一人従者をもつれず、この家に申すことあるとて来ておじゃる。いかに呼び入れ候うか」「武士とや。打揃は」「道服に一腰ざし。むくつけい暴男で……戦争を経つろう疵を負うて……」「聞くも忌まわしい。この最・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・私はジョセフィヌさまへお告げ申すでございましょう」 緞帳の間から逞しい一本の手が延びると、床の上にはみ出ていた枕を中へ引き摺り込んだ。「陛下、今宵は静にお休みなされませ。陛下はお狂いなされたのでございます」 ペルシャの鹿の模様は・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・そして私の頭には百姓とともに枯れ草を刈るトルストイの面影と、地獄の扉を見おろして坐すべきあの「考える人」の姿とが、相並んで浮かび出た。私は石の上に腰をおろして、左の肱を右の膝に突いて、顎を手の甲にのせて、――そして考えに沈んだ。残った舟はも・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫