・・・と、吉里は振り向きもしないで上の間へ入ッた。 客は二人である。西宮は床の間を背に胡座を組み、平田は窓を背にして膝も崩さずにいた。 西宮は三十二三歳で、むッくりと肉づいた愛嬌のある丸顔。結城紬の小袖に同じ羽織という打扮で、どことなく商・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 然るに今、この大切なる仕事を引受けたる世間の父母を見るに、かつて子を家庭に教育するの道を稽古したることなく、甚だしきは家庭教育の大切なることだに知らずして甚だ容易なるものと心得、毎に心の向き次第、その時その時の出任せにて所置するもの多・・・ 福沢諭吉 「家庭習慣の教えを論ず」
・・・(右の方に向き、耳を聳何だか年頃聞きたく思っても聞かれなかった調ででもあるように、身に沁みて聞える。限なき悔のようにもあり、限なき希望のようにもある。この古家の静かな壁の中から、己れ自身の生涯が浄められて流れ出るような心持がする。譬えば母と・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・顔はすこし南向きになったままちっとも動かれぬ姿勢になって居るのであるが、そのままにガラス障子の外を静かに眺めた。時は六時を過ぎた位であるが、ぼんやりと曇った空は少しの風もない甚だ静かな景色である。窓の前に一間半の高さにかけた竹の棚には葭簀が・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・ 三人一緒にこっちを向きました。その瓔珞のかがやきと黒い厳めしい瞳。 私は進みながらまた云いました。「お早う。于大寺の壁画の中の子供さんたち。」「お前は誰だい。」 右はじの子供がまっすぐに瞬もなく私を見て訊ねました。・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・ですから大丈夫戦争も起らなければ無期徒刑をご心配して下さらなくても大丈夫です。却って菜食はみんなの心を平和にし互に正しく愛し合うことができるのです。多くの宗教で肉食を禁ずることが大切の儀式にはつきものになっているのでもわかりましょう。戦争ど・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・陽子は南向きの出窓に腰かけて室内を眺めているふき子に小さい声で、「プロフェッショナル・バアチャン」と囁いた。ふき子は笑いを湛えつつ、若々しい眼尻で陽子を睨むようにした。その、自分の家でありながら六畳の方へは踏み込まず、口数多い神さん・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・共同正犯は、無期又は死刑だ。それでは一体私のどこがそれに該当するのかということをききましたとき、それはいえない、お前の胸にきいてみろという。私は何も関係していない。」「そして百余日のあいだそんなやりもしないのにそんな共同正犯なんて、そんな馬・・・ 宮本百合子 「それに偽りがないならば」
・・・一九四四年この年〔十二〕月に宮本の第一審判決があり、関係被告中ただ一人無期懲役を求刑された。直ちに〔上告〕した。この判決決定の日、裁判長は法廷の慣習を破って判決決定書の主文を先によんだ。このことは誰の眼にも妥当な法律の適・・・ 宮本百合子 「年譜」
・・・親しい友達がもって来てくれた柄の大きすぎるホームスパンの古服を着て、ひろ子が彼の故郷からリュックに入れて背負って来た靴をはいて、いものやけるのを見ている。無期懲役で網走にやられていた重吉は、十二年ぶりで、十月十日に解放された。いが栗に刈られ・・・ 宮本百合子 「風知草」
出典:青空文庫