・・・「差当りこれだけ取って置くさ。もしお婆さんの占いが当れば、その時は別に御礼をするから、――」 婆さんは三百弗の小切手を見ると、急に愛想がよくなりました。「こんなに沢山頂いては、反って御気の毒ですね。――そうして一体又あなたは、何・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
犬養君の作品は大抵読んでいるつもりである。その又僕の読んだ作品は何れも手を抜いたところはない。どれも皆丹念に出来上っている。若し欠点を挙げるとすれば余り丹念すぎる為に暗示する力を欠き易い事であろう。 それから又犬養君の・・・ 芥川竜之介 「犬養君に就いて」
・・・この町の人々もそんなことは夢にも考えなかったと言うことです。若し少しでもその前に前兆らしいことがあったとすれば、それはこう言う話だけでしょう。何でも彼岸前のある暮れがた、「ふ」の字軒の主人は半之丞と店の前の縁台に話していました。そこへふと通・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・そのまわりには必ず二、三人の子供が騒ぎもしないできょとんと火を見つめながら車座にうずくまっていた。そういう小屋が、草を積み重ねたように離れ離れにわびしく立っていた。 農場の事務所に達するには、およそ一丁ほどの嶮しい赤土の坂を登らなければ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・そして私の上体を自分の胸の上にたくし込んで、背中を羽がいに抱きすくめた。若し私が産婦と同じ程度にいきんでいなかったら、産婦の腕は私の胸を押しつぶすだろうと思う程だった。そこにいる人々の心は思わず総立ちになった。医師と産婆は場所を忘れたように・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ もしこいつ等が、己が誰だということを知ったなら、どんなにか目を大きくして己の顔を見ることだろう。こう思って、きょうの処刑の状況、その時の感じを、跡でどんなにか目に見るように、面白く活気のあるように、人に話して聞かせることが出来るだろう・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・これ我々自身の希望、もしくは便宜によるか、父兄の希望、便宜によるか、あるいはまた両者のともに意識せざる他の原因によるかはべつとして、ともかくも以上の状態は事実である。国家ちょう問題が我々の脳裡に入ってくるのは、ただそれが我々の個人的利害に関・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ この女像にして、もし、弓矢を取り、刀剣を撫すとせんか、いや、腰を踏張り、片膝押はだけて身構えているようにて姿甚だととのわず。この方が真ならば、床しさは半ば失せ去る。読む人々も、かくては筋骨逞しく、膝節手ふしもふしくれ立ちたる、がんまの・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・自身の総てが趣味である、配合調和変化等悉く趣味の活動である、趣味というものの解釈説明が出来ない様に茶の湯は決して説明の出来ぬものである、香をたくというても香のかおりが文字の上に顕われない様な訳である、若し記述して面白い様な茶であったら、それ・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・「このあまっこめ、早く飯をくわせる工夫でもしろ……」「稲刈りにもまれて、からだが痛いからって、わしおこったってしようがないや、ハハハハハハ」「ばかア手前に用はねい……」 省作はこれで今日は稲が刈れるかしらと思うほど、五体がみ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
出典:青空文庫