・・・深山幽谷の中に置かれた発電所は、われわれの眼にはやはりその環境にぴったりはまってザハリッヒな美しさを見せている。例えば悪趣味で人を呼ぶ都会の料理屋の造り庭の全く無意味なこけおどしの石燈籠などよりも、寸分無駄のない合理的な発電所や変圧所の方が・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・ 末広君の独創を尊重する精神は、同君の日本及び日本人を愛する憂国の精神と結び付いて、それが同君の我国の学界に対する批判の基準となっていたように見える。「ケトーの真似ばかりするな」これが同君のモットーであった。この言葉の中には欧米学界の優・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・何処の深山から出て何処の幽谷に消え去るとも知れぬこの破壊の神は、あたかもその主宰者たる「時」の仕事をもどかしがっているかのように、あらゆるものを乾枯させ粉砕せんとあせっている。 火鉢には一塊の炭が燃え尽して、柔らかい白い灰は上の藁灰の圧・・・ 寺田寅彦 「凩」
・・・ 地形測量をする測量班員が深山幽谷をさまようて幾日も人間のにおいをかがずにいて、やっとどこかの三角点の櫓にたどりつくと、なんとなくうれしさとなつかしさに胸をおどらすという話である。この一事だけでも、この仕事の生やさしいものでない事がわか・・・ 寺田寅彦 「地図をながめて」
・・・ 今日も夕刻から神楽坂へ廻って、紙屋の店で暮の街の往来を眺めていた。店の出入りは忙しそうであったが、主人は相変らず落着いて相手になっていた。兵隊が幾組も通る。「兵隊も呑気でいいなあ」と竹村君が云うと「あなた方も気楽でしょう」といってにや・・・ 寺田寅彦 「まじょりか皿」
・・・ それからむだ話をしているうちに、じきに夕刻になった。道太は辰之助が来てから何か食べに行こうと思って待っていると、やがて彼はやってきた。そして三人そろって外へ出た。おひろだけはお化粧中だったので、少し遅れてきた。四 道太・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・しかるに彼ら閣臣の輩は事前にその企を萌すに由なからしむるほどの遠見と憂国の誠もなく、事後に局面を急転せしむる機智親切もなく、いわば自身で仕立てた不孝の子二十四名を荒れ出すが最後得たりや応と引括って、二進の一十、二進の一十、二進の一十で綺麗に・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・と、善吉は懐裡の紙入れを火鉢の縁に置き、「お前さんに笑われるかも知れないが、私しゃね、何だか去るのが否になッたから、今日は夕刻まで遊ばせておいて下さいな。紙入れに五円ばかり入ッている。それが私しの今の身性残らずなんだ。昨夜の勘定を済まして、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ これを要するに、開進の今日に到着して、かえりみて封建世禄の古制に復せんとするは、喬木より幽谷に移るものにして、何等の力を用うるも、とうてい行わるべからざることと断定せざるをえず。目今その手段を求めて得ざるものなり。論者といえども自から・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・すると、私がずっと子供の時分からもっていた思想の傾向――維新の志士肌ともいうべき傾向が、頭を擡げ出して来て、即ち、慷慨憂国というような輿論と、私のそんな思想とがぶつかり合って、其の結果、将来日本の深憂大患となるのはロシアに極ってる。こいつ今・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
出典:青空文庫