・・・ 婆さんは益疑わしそうに、日本人の容子を窺っていました。「私の主人の御嬢さんが、去年の春行方知れずになった。それを一つ見て貰いたいんだが、――」 日本人は一句一句、力を入れて言うのです。「私の主人は香港の日本領事だ。御嬢さん・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・三人はそうした波の様子を見ると少し気味悪くも思いました。けれども折角そこまで来ていながら、そのまま引返すのはどうしてもいやでした。で、妹に帽子を脱がせて、それを砂の上に仰向けにおいて、衣物やタオルをその中に丸めこむと私たち三人は手をつなぎ合・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ 罪人は気を取り直した様子で、広間に這入って来た。一刹那の間、一種の、何物をか期待し、何物をか捜索するような目なざしをして、名誉職共の顔を見渡した。そしてフレンチは、その目が自分の目と出逢った時に、この男の小さい目の中に、ある特殊の物が・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・クサカの方ではやや恐怖心を起して様子を見て居た。クサカの怖れは打たれる怖れではない。最早鋭い牙を、よしや打たれてもこの人たちに立てることが出来ぬようになったのを怖れるのだ。平生の人間に対する憤りと恨みとが、消えたために、自ら危んだのだ。どの・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
一 年紀は少いのに、よっぽど好きだと見えて、さもおいしそうに煙草を喫みつつ、……しかし烈しい暑さに弱って、身も疲れた様子で、炎天の並木の下に憩んでいる学生がある。 まだ二十歳そこらであろう、久留米絣・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・自分はしばらく牛を控えて後から来る人たちの様子を窺うた。それでも同情を持って来てくれた人たちであるから、案じたほどでなく、続いて来る様子に自分も安心して先頭を務めた。半数十頭を回向院の庭へ揃えた時はあたかも九時であった。負傷した人もできた。・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・それだのに母親の目から見れば昔の伊勢小町紫の抱帯、前から見ても後から見ても此の上ない様子だと思ってホクホク物で居るのも可笑しい。これでさえもこれほどなんだから左近右衛門の娘に衣類敷金までつけて人のほしがるのも尤である。此の娘は聟えらびの条件・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・僕などは、『召集されないかて心配もなく、また召集されるような様子になったら、その前からアメリカへでも飛んで行きたいんを、わが身から進んでそないに力んだかて阿房らしいやないか? て』冷かしてやったんけど大した意気込みで不平を云うとって、取り合・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・作さんという人は店に在ないから、椿岳の娘は不思議に思って段々作さんという人の容子を聞くと、馬に乗ってるという事から推しても父の椿岳に違いないので、そんならお父さんですというと、家内太夫は初めて知って喫驚したそうだ。椿岳は万事がこういう風に人・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・その様子が今まで人に追い掛けられていて、この時決心して自分を追い掛けて来た人に向き合うように見えた。「お互に六発ずつ打つ事にしましょうね。あなたがお先へお打ちなさい。」「ようございます。」 二人の交えた会話はこれだけであった。・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
出典:青空文庫