・・・ 遠藤は手紙を読み終ると、懐中時計を出して見ました。時計は十二時五分前です。「もうそろそろ時刻になるな、相手はあんな魔法使だし、御嬢さんはまだ子供だから、余程運が好くないと、――」 遠藤の言葉が終らない内に、もう魔法が始まる・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
一 小野の小町、几帳の陰に草紙を読んでいる。そこへ突然黄泉の使が現れる。黄泉の使は色の黒い若者。しかも耳は兎の耳である。 小町 誰です、あなたは? 使 黄泉の使です。 小町 黄泉の使! で・・・ 芥川竜之介 「二人小町」
一 むかし、むかし、大むかし、ある深い山の奥に大きい桃の木が一本あった。大きいとだけではいい足りないかも知れない。この桃の枝は雲の上にひろがり、この桃の根は大地の底の黄泉の国にさえ及んでいた。何でも天地開闢の頃おい、伊弉諾の尊は・・・ 芥川竜之介 「桃太郎」
・・・北海道の記事を除いたすべては一つ残らず青森までの汽車の中で読み飽いたものばかりだった。「お前は今日の早田の説明で農場のことはたいてい呑みこめたか」 ややしばらくしてから父は取ってつけたようにぽっつりとこれだけ言って、はじめてまともに・・・ 有島武郎 「親子」
・・・われらこの烈しき大都会の色彩を視むるもの、奥州辺の物語を読み、その地の婦人を想像するに、大方は安達ヶ原の婆々を想い、もっぺ穿きたる姉をおもい、紺の褌の媽々をおもう。同じ白石の在所うまれなる、宮城野と云い信夫と云うを、芝居にて見たるさえ何とや・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 勿論僕とは大の仲好しで、座敷を掃くと云っては僕の所をのぞく、障子をはたくと云っては僕の座敷へ這入ってくる、私も本が読みたいの手習がしたいのと云う、たまにはハタキの柄で僕の背中を突いたり、僕の耳を摘まんだりして逃げてゆく。僕も民子の姿を・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・と、僕は僕の読みかけているメレジコウスキの小説を開らいた。 正ちゃんは、裏から来たので、裏から帰って行ったが、それと一緒に何か話しをしながら、家にはいって行く吉弥の素顔をちょっとのぞいて見て、あまり色が黒いので、僕はいや気がした。・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 戸々に立ち働いている黒い影は地獄の兵卒のごとく、――戸々の店さきに一様に黒く並んでるかな物、荒物、野菜などは鬼の持ち物、喰い物のごとく、――僕はいつの間に墓場、黄泉の台どころを嗅ぎ当てていたのかと不思議に思った。 たまたま、鼻唄を・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 鴎外の博覧強記は誰も知らぬものはないが、学術書だろうが、通俗書だろうが、手当り任せに極めて多方面に渉って集めもし読みもした。或る時尋ねると、極細い真書きで精々と写し物をしているので、何を写しているかと訊くと、その頃地学雑誌に連掲中・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・今の人が読むのみならず後世の人も実に喜んで読みます。バンヤンは実に「真面目なる宗教家」であります。心の実験を真面目に表わしたものが英国第一等の文学であります。それだによってわれわれのなかに文学者になりたいと思う観念を持つ人がありまするならば・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
出典:青空文庫