・・・襦袢の襟を態と開いて腹掛の丼を現わして居た。彼は六十越しても大抵は其時の馬方姿である。従来酒は嫌な上に女の情というものを味う機会がなかったので彼は唯働くより外に道楽のない壮夫であった。其勤勉に報うる幸運が彼を導いて今の家に送った。彼は養子に・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・「しかし鉄片が磁石に逢うたら?」「はじめて逢うても会釈はなかろ」と拇指の穴を逆に撫でて澄ましている。「見た事も聞いた事もないに、これだなと認識するのが不思議だ」と仔細らしく髯を撚る。「わしは歌麻呂のかいた美人を認識したが、なんと画を活か・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・そしてまた一方は湖になっていて毎年一人ずつ、その中学の生徒が溺死するならわしになっていた。 その湖の岸の北側には屠殺場があって、南側には墓地があった。 学問は静かにしなけれゃいけない。ことの標本ででもあるように、学校は静寂な境に立っ・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ 善吉は何か言おうとしたが、唇を顫わして息を呑んで、障子を閉めるのも忘れて、布団の上に倒れた。「畜生、畜生、畜生めッ」と、しばらくしてこう叫んだ善吉は、涙一杯の眼で天井を見つめて、布団を二三度蹴りに蹴った。「おや、何をしていらッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・然るに今新に書を著わし、盗賊又は乱暴者あらば之を取押えたる上にて、打つなり斬るなり思う存分にして懲らしめよ。況んや親の敵は不倶戴天の讐なり。政府の手を煩わすに及ばず、孝子の義務として之を討取る可し。曾我の五郎十郎こそ千載の誉れ、末代の手本な・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・その親譲りの恐怖心を棄ててしまえ。わしは何もそう気味の悪い者ではない。わしは骸骨では無い。男神ジオニソスや女神ウェヌスの仲間で、霊魂の大御神がわしじゃ。わしの戦ぎは総て世の中の熟したものの周囲に夢のように動いておるのじゃ。其方もある夏の夕ま・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・まさか比翼塚でも二つの死骸を一つの棺に入れるわけでも無いから、そんな事はどうでもいいのであるが、併しこの歌は痴情をよく現わしておると同時に、棺の窮屈なものであるという事も現わしておる。斯んな歌になって見ると、棺の窮屈なのも却て趣味が無いでは・・・ 正岡子規 「死後」
・・・「お前たちはわしの酒を呑んだ。どの勘定も八十銭より下のはない。ところがお前らは五銭より多く持っているやつは一人もない。どうじゃ。誰かあるか。無かろう。うん。」 あまがえるは一同ふうふうと息をついて顔を見合せるばかりです。とのさまがえ・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・恋愛とさえ云えば、十が十純粋な麗わしい花であるとも思えません。 私は、恋愛生活と云うものを余り誇張してとり扱うのは嫌いです。恋愛がそれに価いしないと云うのではなく、正反対に、本当の恋愛は人間一生の間に一遍めぐり会えるか会えないかのもので・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・しかる後、これを後ろのポケットの中に入れた、しかる後、何物をかさがすようなふうをして地上を見まわした。そして頭を前の方に垂れて市場の方へと往ってしまった。リュウマチスのために身体をまるで二重にして。 見るがうちにかれは群集のうちに没して・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
出典:青空文庫