・・・「わたしが帰って行ったらお祖母さんと三人で門で待ってはるの」姉がそんなことを言った。「何やら家にいてられなんだわさ。着物を着かえてお母ちゃんを待っとろと言うたりしてなあ」「お祖母さんがぼけはったのはあれからでしたな」姉は声を少し・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・靴の紐を結び終わった夫に帽子を渡しながら、信子は弱よわしい声を出した。「今日はまだどこへも出られないよ。こちらから見ると顔がまだむくんでいる」「でも……」「でもじゃないよ」「お母さん……」「お姑さんには行ってもらうさ」・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・流れに渡したる掛橋は、小柴の上に黒木を連ねて、おぼつかなげに藤蔓をからみつけたり。橋を渡れば山を切り開きて、わざとならず落しかけたる小滝あり。杣の入るべき方とばかり、わずかに荊棘の露を払うて、ありのままにしつらいたる路を登り行けば、松と楓樹・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・かれこれするうち、自分の向かいにいた二等水兵が、内ポケットから手紙の束を引き出そうとして、その一通を卓の下に落としたが、かれはそれを急に拾ってポケットに押し込んで残りを隣の水兵に渡した。他の者はこれに気がつかなかったらしい、いよいよ読み上げ・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・ヤこれは驚いた、そんなら早い話がお絹さんお常さんどちらでもよい、吉さんのところへ押しかけるとしたらどんな者だろう』と、神主の忰の若旦那と言わるるだけに無遠慮なる言い草、お絹は何と聞きしか『そんならわたしが押しかけて行こうか、吉さんいけな・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・隊長は犯人を検挙するために、褒美を十円やることを云い渡してあった。密偵は十円に釣られて、犬のように犯人を嗅ぎまわった。そして、十円を貰って嬉しがっている。憲兵は、松本にそういう話を笑いながらしたそうだ。「じや、あの朝鮮人かもしれん。今さ・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・「そりゃ、下へ置いとけゃえい。」 自動車に乗ると清三は両親にそう云った。しかし、彼等は、下に置くと盗まれるものゝように手離さなかった。「わたし持ちますわ。」嫁はそれを見て手を出した。「いゝえ、大事ござんせん。」おしかは殊更叮・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・夫はまるで自分というものの居ることを忘れはてているよう、夫は夫、わたしはわたしで、別々の世界に居るもののように見えた。物は失われてから真の価がわかる。今になって毎日毎日の何でも無かったその一眼が貴いものであったことが悟られた。と、いうように・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・り上等の魚でない、群れ魚ですから獲れる時は重たくて仕方がない、担わなくては持てないほど獲れたりなんぞする上に、これを釣る時には舟の艫の方へ出まして、そうして大きな長い板子や楫なんぞを舟の小縁から小縁へ渡して、それに腰を掛けて、風の吹きさらし・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・里と帰ったあくる夜千里を一里とまた出て来て顔合わせればそれで気が済む雛さま事罪のない遊びと歌川の内儀からが評判したりしがある夜会話の欠乏から容赦のない欠伸防ぎにお前と一番の仲よしはと俊雄が出した即題をわたしより歳一つ上のお夏呼んでやってと小・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
出典:青空文庫