・・・その姿がちょいとの間、浅く泥を刷いたアスファルトの上に、かすかな影を落して行くのが見えた。「神山さんはいないのかい?」 洋一は帳場机に坐りながら、店員の一人の顔を見上げた。「さっき、何だか奥の使いに行きました。――良さん。どこだ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ カッフェの外のアスファルトには、涼しい夏の夜風が流れている。陳は人通りに交りながら、何度も町の空の星を仰いで見た。その星も皆今夜だけは、…… 誰かの戸を叩く音が、一年後の現実へ陳彩の心を喚び返した。「おはいり。」 その声が・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・僕等は腕を組んだまま、二十五の昔と同じように大股にアスファルトを踏んで行った。二十五の昔と同じように――しかし僕はもう今ではどこまでも歩こうとは思わなかった。「まだ君には言わなかったかしら、僕が声帯を調べて貰った話は?」「上海でかい・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・銀座の裏は静かだった。アスファルトの上へ落ちた日あしもやはり静かに春めかしかった。しかしたね子は夫の言葉に好い加減な返事を与えながら、遅れ勝ちに足を運んでいた。…… 帝国ホテルの中へはいるのは勿論彼女には始めてだった。たね子は紋服を着た・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・ 冬の日の当ったアスファルトの上には紙屑が幾つもころがっていた。それらの紙屑は光の加減か、いずれも薔薇の花にそっくりだった。僕は何ものかの好意を感じ、その本屋の店へはいって行った。そこもまたふだんよりも小綺麗だった。唯目金をかけた小娘が・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ たとえば冬の夜更などに、銀座通りを御歩きになって見ると、必ずアスファルトの上に落ちている紙屑が、数にしておよそ二十ばかり、一つ所に集まって、くるくる風に渦を巻いているのが、御眼に止まる事でしょう。それだけなら、何も申し上げるほどの事は・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 正吉くんは、ふと目をさますと、外のアスファルトの往来をカチ、カチと、スパイクの鉄を、石に打ちつける音がしました。「あ、あの子がきた?」といって、飛び起きました。このようすを見た、お姉さんが、「正ちゃん、いま時分、だれがくるもの・・・ 小川未明 「少年と秋の日」
・・・咳をしながら右へ折れて三間ばかし行くといきなりアスファルトの道が横に展けていてバスの停留所があった。佐伯の勘は当っていた。そこから街へ通うバスが出るのだった。停留所のうしろは柔術指南所だった。柔道着を着た二人の男がしきりに投げ合いをしていた・・・ 織田作之助 「道」
・・・雪の下は都会めかしたアスファルトで、その上を昼間は走る亀ノ井バスの女車掌が言うとおり「別府の道頓堀でございます」から、土産物屋、洋品屋、飲食店など殆んど軒並みに皎々と明るかった。 その明りがあるから、蝋燭も電池も要らぬ。カフェ・ピリケン・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・ 人通りの絶えた四条通は稀に酔っ払いが通るくらいのもので、夜霧はアスファルトの上までおりて来ている。両側の店はゴミ箱を舗道に出して戸を鎖してしまっている。所どころに嘔吐がはいてあったり、ゴミ箱が倒されていたりした。喬は自分も酒に酔ったと・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
出典:青空文庫