・・・退院まで四十日も掛り、その後もレントゲンとラジウムを掛けに通ったので、教師をしていた間けちけちと蓄めていた貯金もすっかり心細くなってしまい、寺田は大学時代の旧師に泣きついて、史学雑誌の編輯の仕事を世話してもらった。ところが、一代は退院後二月・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・その後化学的元素というものが確定され、漸次に新元素が発見され今は八十余の元素がいろいろ組合わされてあらゆる物質を構成していると考うるようになった、つい近頃までは元素は永久不変なものと考えられていたが、ラジウムのような物質が発見され研究された・・・ 寺田寅彦 「研究的態度の養成」
・・・もしほんとに科学は人間に関しないのであるならば、どうしてキュリー夫人は、ラジウムの権利を独占して儲けようとせず、ひろく全世界の人間の幸福のためにと開放したろう。そういう潔白な美しい行為は人間と科学との結ばれようの正しさを、おのずから示してい・・・ 宮本百合子 「寒の梅」
一九一四年の夏は、ピエール・キュリー街にラジウム研究所キュリー館ができ上ってキュリー夫人はそこの最後の仕上げの用事と、ソルボンヌ大学の学年末の用事とで、なかなか忙がしかった。フランスの北のブルターニュに夏休みのための質素な・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人」
・・・ 成功の冠は、一九〇四年、ピエールが四十五歳、マリヤが三十六歳の年、ラジウムを発見した業績によって、世界的に彼等の上にもたらされました。ノーベル賞を与えられた彼等は科学者として最高の名誉の席につかせられ、学界からおくられる称号、学位の数・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人の命の焔」
・・・キュリー夫人の伝記は、殆どあらゆる若い人々によまれたのであるが、キュリー夫妻が、アメリカからの手紙でラジウムの特許をとるかとらないかという問題について言葉少なに相談しあった一九〇四年の春の或る日曜日の十五分間のねうちこそ、評価されなければな・・・ 宮本百合子 「これから結婚する人の心持」
・・・ 例えば、日本の若い婦人たちにも心からの興味と尊敬をもって読まれたキュリー夫人伝にしろ、もしキュリー夫人の一生が、ただ研究室での根気づよい努力でラジウムを発見したというだけであったら、その科学的業績に敬意は十分払われるとしても、あの・・・ 宮本百合子 「知性の開眼」
・・・世界の物理学が原子の問題をとりあげ得る段階に迄到達していたからこそ、ポーランドの精励なる科学女学生の手はピエール・キュリーの創見と結び合わされ、彼女の手もラジウムの名誉ある火傷のあとをもつようになった。愛は架空にはない。原子が、人間の幸福の・・・ 宮本百合子 「まえがき(『真実に生きた女性たち』)」
・・・が出た明治三十二年といえば、西暦一八九九年、まさにキュリー夫妻が彼らの記念すべき物理学校の粗末な実験室で辛苦協力の成果としてラジウムを発見した翌年である。イプセンの「人形の家」が書かれたのは日本の明治十一年であった。そしてモウパッサンの「女・・・ 宮本百合子 「三つの「女大学」」
・・・たとえばキュリー夫人のラジウムにしろ、もし彼女とその卓抜な夫のピエールとがある発光体に最初の注意をひきつけられてゆかなかったとしたらば、彼女の不撓な根気強さもラジウムに到達することはなかった。 こうして考えてみると、現実を知っているとい・・・ 宮本百合子 「山の彼方は」
出典:青空文庫