・・・自分はその一二を受けながら、シナの水兵は今時分定めて旅順や威海衛で大へこみにへこんでいるだろう、一つ彼奴らの万歳を祝してやろうではないかと言うとそれはおもしろいと、チャン万歳チャンチャン万歳など思い思いに叫ぶ、その意気は彼らの眼中すでに旅順・・・ 国木田独歩 「遺言」
一人の男と一人の女とが夫婦になるということは、人間という、文化があり、精神があり、その上に霊を持った生きものの一つの習わしであるから、それは二つの方面から見ねばならぬのではあるまいか。 すなわち一つは宇宙の生命の法則の・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・廊下の一つの扉は、彼が外へ出かけに開いていた。のぞくと、そこは営倉だった。「偽札をこしらえた者が掴まったそうじゃないか、見てきたかい?」 兵舎へ帰ると、一人で将棋盤を持出して駒を動かしていた松本が頭を上げてきいた。「いや。」・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ですから、「彼奴高慢な顔をして、出来も仕無い癖にエラがって居る、一つ苦しめて遣れ」というような事ですから、今思い出すとおかしくてならんような争い方を仕たものです。或る一人が他の一人を窘めようと思って、非常に字引を調べて――勿論平常から字引を・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・ 母親は片方の眼からだけ涙をポロ/\出しながら、手荷物一つ持って帰ってきた娘にきいた。「キョウサントウだかって……」「何にキョ……キョ何んだって?」「キョウサントウ」「キョ……サン……トウ?」 然し母親は直ぐその名を・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・くる夜千里を一里とまた出て来て顔合わせればそれで気が済む雛さま事罪のない遊びと歌川の内儀からが評判したりしがある夜会話の欠乏から容赦のない欠伸防ぎにお前と一番の仲よしはと俊雄が出した即題をわたしより歳一つ上のお夏呼んでやってと小春の口から説・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ こう言い乍ら、自分は十銭銀貨一つ取出して、それを男の前に置いて、「僕の家ばかりじゃない、何処の家へ行っても左様だろうと思うんだ。ただ呉れろと言われて快く出すものは無い。是から君が東京迄も行こうというのに、そんな方法で旅が出来るもの・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ まだ一つある。私はむしろ情負けをする性質である。先方の事情にすぐ安値な同情を寄せて、気の毒だ、かわいそうだと思う。それが動機で普通道徳の道を歩んでいる場合も多い。そしてこれが本当の道徳だとも思った。しかしだんだん種々の世故に遭遇すると・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ じいさんは別れるときに、ポケットから小さな、さびた鍵を一つ取り出して、「これをウイリイさんが十四になるまで、しまっておいてお上げなさい。十四になったら、私がいいものをお祝いに上げます。それへこの鍵がちゃんとはまるのですから。」と言・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
人物甲、夫ある女優。乙、夫なき女優。婦人珈琲店の一隅。小さき鉄の卓二つ。緋天鵞絨張の長椅子一つ。椅子数箇。○甲、帽子外套の冬支度にて、手に上等の日本製の提籠を持ち入り来る。乙、半ば飲みさしたる麦酒の小瓶を前に置き、絵・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
出典:青空文庫