・・・ 葉松石は同じころ、最初の外国語学校教授に招聘せられた人で、一度帰国した後、再び来遊して、大阪で病死した。遺稿『煮薬漫抄』の初めに詩人小野湖山のつくった略伝が載っている。 毎年庭の梅の散りかける頃になると、客間の床には、きまって何如・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・秋のマチというと一度必ず隊伍を組んだ瞽女の群が村へ来る。其同勢のうちにお石は必ず居たのである。晩秋の収穫季になると何処でも村の社の祭をする。土地ではそれをマチといって居る。マチは村落によって日が違った。瞽女はぐるぐるとマチを求めて村々をめぐ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・裂目を洩れて斜めに大理石の階段を横切りたる日の光は、一度に消えて、薄暗がりの中に戸帳の模様のみ際立ちて見える。左右に開く廻廊には円柱の影の重なりて落ちかかれども、影なれば音もせず。生きたるは室の中なる二人のみと思わる。「北の方なる試合に・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・かかる内在即超越、超越即内在の形式によって、一度的なる唯一的自己、歴史的自己というものが考えられるのである。自覚的自己は履歴を有ったものでなければならない。時間空間の形式というものも、自己表現的世界の自己形成の形式として、論理的に考えられる・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・そうすれば、今の私のヒロイックな、人道的な行為と理性とは、一度に脆く切って落されるだろう、私は恐れた。恥じた。 ――俺はこの女に対して性慾的などんな些細な興奮だって惹き起されていないんだ。そんな事を考える丈けでも間違ってるんだ。それは見・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・私もしばしば試みたけれども、十数回のうちで、たった一度しか成功しなかった。 響灘は玄海灘とつづいているが、白島付近は魚と貝類の宝庫だ。そこへ二、三年前、一月の寒い風に吹かれながら、ソコブク釣りに出かけた。河豚のおいしいのは十二月から一月・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・あんまりひどうござんすよ。一度くらいは連れて来て下すッたッていいじゃありませんか。本統にひどいよ」「そういうわけじゃアないんだが、あの人は今こっちにいないもんだから」「虚言ばッかし。ようござんすよ。たんとお一人でおいでなさいよ」・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・天より我に与へ給へる家の貧は我仕合のあしき故なりと思ひ、一度嫁しては其家を出ざるを女の道とする事、古聖人の訓也。若し女の道に背き、去らるゝ時は一生の恥也。されば婦人に七去とて、あしき事七ツ有り。一には、しゅうとしゅうとめに順ざる女は去べし。・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ あなたがわたくしの事を度々思い出して下さるだろう、そしてそれを思い出すのを楽しみにして下さるだろうなんぞとは、わたくしは一度も思った事はございません。あなたはあんまり御用がおありになって、あんまり人に崇拝せられていらっしゃるのですもの・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・氷相当官私はも一度こころの中でつぶやきました。 全く私のてのひらは水の中で青じろく燐光を出していました。 あたりが俄にきいんとなり、(風だよ、草の穂こんな語が私の頭の中で鳴りました。まっくらでした。まっくらで少しうす赤かったので・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
出典:青空文庫