・・・俺は両耳へ手をやるが早いか、一散にそこを逃げ出してしまった。……」 けれども運命は半三郎のために最後の打撃を用意していた。と言うのはほかでもない。三月の末のある午頃、彼は突然彼の脚の躍ったり跳ねたりするのを発見したのである。なぜ彼の馬の・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・敵の大将は身を躱すと、一散に陣地へ逃げこもうとした。保吉はそれへ追いすがった。と思うと石に躓いたのか、仰向けにそこへ転んでしまった。同時にまた勇ましい空想も石鹸玉のように消えてしまった。もう彼は光栄に満ちた一瞬間前の地雷火ではない。顔は一面・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・と声を掛けておいて、待ち構えた湯どのへ、一散――例の洗面所の向うの扉を開けると、上がり場らしいが、ハテ真暗である。いやいや、提灯が一燈ぼうと薄白く点いている。そこにもう一枚扉があって閉まっていた。その裡が湯どのらしい。「半作事だと言うか・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・いきなり妹は、くるりとこちらに向き直って一散に駈けた。バスも走る。妹は、泣くように顔をゆがめて二十メートルくらい追いかけて、立ちどまり、「兄ちゃん!」と高く叫んで、片手を挙げた。 以上は、三浦君の羨やむべき艶聞の大略であるが、さて問・・・ 太宰治 「律子と貞子」
・・・構えの大きな門、駄菓子を売る古い茅葺の家、ここまで来ると、もう代々木の停留場の高い線路が見えて、新宿あたりで、ポーと電笛の鳴る音でも耳に入ると、男はその大きな体を先へのめらせて、見栄も何もかまわずに、一散に走るのが例だ。 今日もそこに来・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・物理学的に考えてみると、一度始まった弦の振動をその自然の進行のままに進行させ、そうしてそのエネルギーの逸散を補うに足るだけの供給を、弦と弓の毛との摩擦に打ち勝つ仕事によって注ぎ込んで行くのであるが、その際もし用弓に少しでも無理があると、せっ・・・ 寺田寅彦 「「手首」の問題」
・・・ それだから、ちょうどそのとき、一匹の大きなセッター種の綺麗な毛並の犬が、榛の木の並樹の土堤を、一散に走ってくるのを知らなかった。「チロルや、チロル、チロルってば……」 くさりを切らした洋装の娘が断髪を風に吹きなびかして、その犬・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・太十が左へ向けば其時一散に左へ駈けて行く。太十は左へ行く時には態と右の方へ足を運ぶ。赤がばらばらと駈けて行くのを見て左の方へ歩いて行くと赤は暫く経って呼吸せわしく太十を求めて駈けて来る。こういう悪戯を二度も三度も繰り返して居る太十の姿を時と・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・乗る馬の息の、闇押し分けて白く立ち上るを、いやがうえに鞭って長き路を一散に馳け通す。黒きもののそれかとも見ゆる影が、二丁ばかり先に現われたる時、われは肺を逆しまにしてランスロットと呼ぶ。黒きものは聞かざる真似して行く。幽かに聞えたるは轡の音・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・鞍壺に延び上ったるシーワルドは体をおろすと等しく馬を向け直して一散に城門の方へ飛ばす。「続け、続け」とウィリアムを呼ぶ。「赤か、白か」とウィリアムは叫ぶ。「阿呆、丘へ飛ばすより壕の中へ飛ばせ」とシーワルドはひたすらに城門の方へ飛ばす。港の入・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫