・・・ 生ある一物、不思議はないが、いや、快く戯れる。自在に動く。……が、底ともなく、中ほどともなく、上面ともなく、一条、流れの薄衣を被いで、ふらふら、ふらふら、……斜に伸びて流るるかと思えば、むっくり真直に頭を立てる、と見ると横になって、す・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・省作はわれ自らもまた自然中の一物に加わり、その大いなる力に同化せられ、その力の一端がわが肉体にもわが精神にも通いきて、新たなる生命にいきかえったような思いである。おとよさんやおはまや、晴ればれと元気のよい、毛の先ほども憎気のない人たちと打ち・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・そのうち解けたような、また一物あるような腹がまえと、しゃべるたびごとに歪む口つきとが、僕にはどうも気になって、吉弥はあんな母親の拵えた子かと、またまた厭気がさした。 一二 もう、ゆう飯時だからと思って、僕は家を出で、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・机の上は勿論、床の間にさえ原稿紙や手紙殻や雑誌や書籍がダラシなくゴタクサ積重ねられ、装飾らしい装飾は一物もなかった。一と口にいうと、地方からポッと出の山出し書生の下宿住い同様であって、原稿紙からインキの色までを気にする文人らしい趣味や気分を・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・何だか胸に一物、背中に荷物ってとこかな。あはは……」「あはは……」 父子は愉快そうに笑っていた。 丁度その頃、赤井は南炭屋町の焼跡にしょんぼり佇んでいた。 かつて、わが家のあったのは、この路地の中だと、さすがに見当はついたが・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・これですかと男はいやな顔もせず笑って、こりゃ僕の荷物ですよ、「胸に一物、背中に荷物」というが、僕の荷物は背中に一文字でね。十七の年からもう二十年背負っているが、これで案外重荷でねと、冗談口の達者な男だった。十七の歳から……? と驚くと、僕も・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・そして火夫も運転手も乗客も、みな身を乗り出して薦のかけてある一物を見た。 この一物は姓名も原籍も不明というので、例のとおり仮埋葬の処置を受けた。これが文公の最後であった。 実に人夫が言ったとおり、文公はどうにもこうにもやりきれなくっ・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・牛乳屋の物食う口は牛七匹と人五人のみのように言いしは誤謬にて、なお驢馬一頭あり、こは主人がその生国千葉よりともないしという、この家には理由ある一物なるが、主人青年に語りしところによれば千葉なる某という豪農のもとに主人使われし時、何かの手柄に・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・集る者は大抵四十から五十、六十の相当年輩の男ばかりで、いずれは道楽の果、五合の濁酒が欲しくて、取縋る女房子供を蹴飛ばし張りとばし、家中の最後の一物まで持ち込んで来たという感じでありました。或いは又、孫のハアモニカを、爺に借せと騙して取上げ、・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・私の顔を見るなり、「なんだ、こないだの一物は、あれは両棲類中の有尾類。」わかり切ったような事を、いかにも得意そうに言うのである。「わからんかな。それ、読んで字の如しじゃないか。しっぽがあるから、有尾類さ。あははは。」さすがに、てれくさく・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
出典:青空文庫