・・・けれども午後には七草から三月の二十何日かまで、一度も遇ったと云う記憶はない。午前もお嬢さんの乗る汽車は保吉には縁のない上り列車である。 お嬢さんは十六か十七であろう。いつも銀鼠の洋服に銀鼠の帽子をかぶっている。背はむしろ低い方かも知れな・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・ 十三 七草の夜、牧野が妾宅へやって来ると、お蓮は早速彼の妻が、訪ねて来たいきさつを話して聞かせた。が、牧野は案外平然と、彼女に耳を借したまま、マニラの葉巻ばかり燻らせていた。「御新造はどうかしているんです・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・日頃懇意な植木屋が呉れた根も浅い鉢植の七草は、これもとっくに死んで行った仲間だ。この旱天を凌いで、とにもかくにも生きつづけて来た一二の秋草の姿がわたしの眼にある。多くの山家育ちの人達と同じように、わたしも草木なしにはいられない方だから、これ・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・ 戸田さんが今月の『文学世界』に発表した『七草』という短篇小説、お読みになりましたか。二十三の娘が、あんまり恋を恐れ、恍惚を憎んで、とうとうお金持ちの六十の爺さんと結婚してしまって、それでもやっぱり、いやになり、自殺するという筋の小説。・・・ 太宰治 「恥」
・・・浅草の興行街は幸に空襲の災難を免れていたので映画の外に芝居やレビューも追々興行されるようになったから、是非にも遊びに来るようにと手紙をもらうことも度々になったので、去年の正月も七草を過ぎたころ、見物に出かけた、その時木馬館の後あたりに小屋掛・・・ 永井荷風 「裸体談義」
・・・「小万さんは三日とも西宮さんで、七草も西宮さんで、十五日もそうだっさ。あんなお客が一人ありゃア暮の心配もいりゃアしないし、小万さんは実に羨ましいよ」「西宮さんと言やア、あの人とよく一しょに来た平田さんは、好男子だッたッけね」「名・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 机が大変よごれたので水色のラシャ紙をきって用うところだけにしき、硯ばこを妹にふみつぶされたから退紅色のところに紫や黄で七草の出て居る千代がみをほそながくきって図学(紙をはりつけて下に敷いた。 水色のところにうき出したように見えてき・・・ 宮本百合子 「日記」
・・・東京に居て他家へ行ったり来られたりしてすごす七草まで位の日は大変早く、目まぐるしいほどで立って行くけれ共、此処の一日は、時間にのび縮みはない筈ながら、ゆるゆると立って行く。 東京の急がしい渦が巻き来まれて、暇だとは云いながら一足門の外へ・・・ 宮本百合子 「農村」
出典:青空文庫