・・・しかし、その時いた八尾の田舎まで迎えに来てくれたのは、父でなく、三味線引きのおきみ婆さんだった。 高津神社の裏門をくぐると、すぐ梅ノ木橋という橋があります。といっても子供の足で二足か三足、大阪で一番短いというその橋を渡って、すぐ掛りの小・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・それが夫婦になっているのだが、本当は大きな椀に盛って一つだけ持って来るよりも、そうして二杯もって来る方が分量が多く見えるというところをねらった、大阪人の商売上手かも知れないが、明治初年に文楽の三味線引きが本職だけでは生計が立たず、ぜんざい屋・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・ 厭らしく化粧した踊り子がカチ/\と拍子木を鼓いて、その後から十六七位の女がガチャ/\三味線を鳴らし唄をうたいながら入って来た。一人の酔払いが金を遣った。手を振り腰を振りして、尖がった狐のような顔を白く塗り立てたその踊り子は、時々変な斜・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・勢いづいた三味線や太鼓の音が近所から、彼の一人の心に響いて来た。「この空気!」と喬は思い、耳を欹てるのであった。ゾロゾロと履物の音。間を縫って利休が鳴っている。――物音はみな、あるもののために鳴っているように思えた。アイスクリーム屋の声・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ることのできるだけを言うと、夏の夜の月明らかな晩であるから、船の者は甲板にいで、家の者は外にいで、海にのぞむ窓はことごとく開かれ、ともし火は風にそよげども水面は油のごとく、笛を吹く者あり、歌う者あり、三味線の音につれて笑いどよめく声は水に臨・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・眼の悪い三十五、六の女が三味線を持って何か言っていた。その前に、十二、三の薄汚んで中をのぞいてみた。いないようだった。彼は入口まで行った。障子にはめてある硝子には半紙が貼ってあって、ハッキリ中は見えなかったが、女はいなかった。龍介は入口の硝・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・の手とこの手とこう合わせて相生の松ソレと突きやったる出雲殿の代理心得、間、髪を容れざる働きに俊雄君閣下初めて天に昇るを得て小春がその歳暮裾曳く弘め、用度をここに仰ぎたてまつれば上げ下げならぬ大吉が二挺三味線つれてその節優遇の意を昭らかにせら・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・年若い頃のお三輪に、三年の茶の道と、三味線や踊りの芸を仕込んでくれたのも母だ。財産も、店の品物も、着物も、道具も――一切のものを失った今となって見ると、年老いたお三輪が自分の心を支える唯一つの柱と頼むものは、あの生みの母より外になかった。・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・ 床の間にはこのあいだの石膏の像はなくて、その代りに、牡丹の花模様の袋にはいった三味線らしいものが立てかけられていた。青扇は床の間の隅にある竹の手文庫をかきまわしていたが、やがて小さく折り畳まれてある紙片をつまんで持って来た。「こん・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・美しい草花、雑誌店、新刊の書、角を曲がると賑やかな寄席、待合、三味線の音、仇めいた女の声、あのころは楽しかった。恋した女が仲町にいて、よく遊びに行った。丸顔のかわいい娘で、今でも恋しい。この身は田舎の豪家の若旦那で、金には不自由を感じなかっ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫