・・・「この頃は折角見て上げても、御礼さえ碌にしない人が、多くなって来ましたからね」「そりゃ勿論御礼をするよ」 亜米利加人は惜しげもなく、三百弗の小切手を一枚、婆さんの前へ投げてやりました。「差当りこれだけ取って置くさ。もしお婆さ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・腰から上をのめるように前に出して、両手をまたその前に突出して泳ぐような恰好をしながら歩こうとしたのですが、何しろひきがひどいので、足を上げることも前にやることも思うようには出来ません。私たちはまるで夢の中で怖い奴に追いかけられている時のよう・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・肩を聳やかし、眉を高く額へ吊るし上げて、こう返事をした。「だって嫌なお役目ですからね。事によったら御気分でもお悪くおなりなさいますような事が。」奥さんはいよいよたじろきながら、こう弁明し掛けた。 フレンチの胸は沸き返る。大声でも出し・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・そうして何か物音がする度に頭を上げて、燐のように輝く眼をみひらいた。種々な物音がする。しかしこの春の夜の物音は何れも心を押し鎮めるような好い物音であった。何とは知らず周囲の草の中で、がさがさ音がして犬の沾れて居る口の端に這い寄るものがある。・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・もっと卒直にいえば、諸君は諸君の詩に関する知識の日に日に進むとともに、その知識の上にある偶像を拵え上げて、現在の日本を了解することを閑却しつつあるようなことはないか。両足を地面に着けることを忘れてはいないか。 また諸君は、詩を詩として新・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・と、いうと、腰を上げざまに襖を一枚、直ぐに縁側へ辷って出ると、呼吸を凝して二人ばかり居た、恐いもの見たさの徒、ばたり、ソッと退く気勢。「や。」という番頭の声に連れて、足も裾も巴に入乱るるかのごとく、廊下を彼方へ、隔ってまた跫音、次第に跫・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ もう畳を上げた方がよいでしょう、と妻や大きい子供らは騒ぐ。牛舎へも水が入りましたと若い衆も訴えて来た。 最も臆病に、最も内心に恐れておった自分も、側から騒がれると、妙に反撥心が起る。殊更に落ちついてる風をして、何ほど増して来たとこ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 椿岳の画は今の展覧会の絵具の分量を競争するようにゴテゴテ盛上げた画とは本質的に大に違っておる。大抵は悪紙に描きなぐった泥画であるゆえ、田舎のお大尽や成金やお大名の座敷の床の間を飾るには不向きであるが、悪紙悪墨の中に燦めく奔放無礙の稀有・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ こう、お母さまがいわれたときに、のぶ子は思わず、目を上げて、空の、かなたを見るようにいたしました。「ほんとうに、いま、そのお姉さんがおいでたなら、どんなにわたしはしあわせであろう。」と、のぶ子は、はかない空想にふけったのであります・・・ 小川未明 「青い花の香り」
・・・ 男はキュウと盃を干して、「さあお光さん、一つ上げよう」「まあ私は……それよりもお酌しましょう」「おっと、零れる零れる。何しろこうしてお光さんのお酌で飲むのも三年振りだからな。あれはいつだったっけ、何でも俺が船へ乗り込む二三日前・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫